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2013年8月11日日曜日

【危機的状況】山本太郎議員の周囲には「失脚を回避」するための処世を助言する人物がいない

※ こんなことをやれば、遅かれ早かれ「失脚」させられるに決まっている。

               ↓

☆山本太郎議員の姿も…共産党創立91周年講演会
(読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/news/20130810-OYT1T00790.htm

http://www.peeep.us/d50ab069

共産党は10日、東京都内で党創立91周年記念講演会を開いた。

(略)

会場には党関係者ら約1800人が集まり、先の参院選で初当選した山本太郎参院議員(無所属)も傍聴に訪れた。




☆「本当の最大野党は共産党だ」山本太郎参院議員
(朝日新聞)

http://www.asahi.com/politics/update/0810/TKY201308100185.html

http://www.webcitation.org/6ImAAkhyv

広くつながっていかないと(政治を)変えていけない。その中で共産党は大きな力を持つだろう。本当の意味での野党の最大勢力は共産党だ。日本維新の会やみんなの党は自民党の補完勢力でしかない。反対勢力が一つになることが必要だなと、志位委員長のお話を聞いてより強く思いました。
(共産党創立91周年記念講演の会場で記者団に)



ソトン
https://twitter.com/thoton/status/366234086957780993
来月には山本太郎さんと吉良さん(注:共産党の吉良よし子参院議員)との会談も実現するらしいので、両者がいい関係を築けるといいですね。




《米国の「虎の尾」を踏めば首相ですら失脚する》

☆田中角栄

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%A7%92%E6%A0%84

1972年(昭和47年)9月

日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東国家主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。

(略)

同日、中華民国が対日国交断絶を発表。




1974年(昭和49年)

10月:
月刊誌『文藝春秋』で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載。立花隆らが金脈問題を追及する。

11月:
日本外国特派員協会における外国人記者との会見や、国会での追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。




1976年(昭和51年)

2月:
ロッキード事件発生。アメリカの上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。首相経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。




☆ロッキード事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ロッキード事件はアメリカ合衆国の当局が仕掛けた陰謀だ、という説がある。 ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン(文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている。

中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている。

その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表・クラッターが、無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が誤って上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソビエト連邦やアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、

または中華人民共和国と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が田原総一朗の書いた記事などで当時から有力だが、

田中による中華人民共和国との国交成立に反発していた右翼や自民党福田派、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。

(略)

1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。

3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りにあいかねない場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。

また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。

田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。

松岡は、当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。

また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は、「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。

田原が、榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。

そして、田原が、事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。

さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の堀田力は、「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている。




☆日米関係を巡る激変はとうとうロッキード事件にまで
(ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報。2010年2月12日)

http://amesei.exblog.jp/10761884

http://www.asyura2.com/10/senkyo80/msg/335.html

中曽根の盟友であるキッシンジャー国務長官は、韓国系ジャーナリストの「ロッキード事件はあなたが仕掛けたものか」との問いに「オフコース(もちろんだ)」と答えていた。(韓国系ジャーナリスト文明子女史の著書に記述がある)




☆ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書
(2010年2月12日の朝日新聞)

http://www.asyura2.com/10/senkyo80/msg/307.html

中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。

(略)

中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。




《山本太郎議員は「脱税の疑い」で失脚させられる可能性もある》

☆財務省上層部が小沢一郎調査班発足させる指示出したとの情報
(週刊ポスト。2012年3月9日号)

http://www.news-postseven.com/archives/20120227_90718.html

http://www.peeep.us/68342a30

国税庁関係者は小沢調査班結成の意味をこう受け止めている。

「今になって料調を動かすというのは、財務省の上層部が、小沢氏に無罪判決が出た場合に備えて脱税容疑の調査に乗り出したことを意味する」




アルルの男 (2010年1月19日)
http://twitter.com/bilderberg54/status/7943768356
何も見つからないでも、連日、様々なところにガサを掛けるという可能性もある。そして、夕刊フジの鈴木棟一連載によれば、「国税の応援が入った」と書いてある。事実とすれば、手段をいとわず調べるという意味ではないか。この恐ろしさを理解せずに、世論調査に答えている”大衆”がかなり居るのでは?



☆特捜部、小沢捜査続行 国税当局とタッグで“リベンジ”へ
(2010年2月4日の夕刊フジ)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20100204/dms1002041233001-n2.htm

http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/516.html

特捜部と国税当局はこれまでも連携してきた。

自民党時代、小沢氏の後見人だった金丸信元副総裁は1993年、特捜部と国税当局による潜行捜査で、億単位の不正蓄財を発見され、脱税事件として摘発されている。特捜部はこの再現でも狙っているのか。




☆金丸信

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B8%B8%E4%BF%A1

一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行(日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。

1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。

後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。”金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの”と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(純度99.99%の金)であったとされる(朝日新聞記者の村山治『特捜検察VS金融権力』)このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。

これが止めとなって同情論は消え、権威は地に堕ちた。

金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。




《危険人物は「弱小勢力」のうちに潰して将来の禍根を絶つのが鉄則》

☆范増

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E5%A2%97

劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことを、范増は「天下を狙う大望有るゆえ」と察知し、劉邦を殺すよう項羽に進言した。項羽も最初は激怒して劉邦を殺そうとしていたが、親族である項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。有名な「鴻門の会」である。

この会の途中で、范増は幾度も項羽らに劉邦暗殺を行うように指示したが、張良や項伯や樊噲などに妨げられ、また項羽も決断できなかったため、結局劉邦を生きて帰らせてしまう。

会の後で、范増は劉邦を暗殺できなかったことを悔しがり「豎子、ともに謀るに足らず!」(小僧とは一緒に謀を行うことができない!)と叫び、劉邦から贈られた器を叩きつけて壊した(豎子とは項羽を指す)。





☆鴻門の会

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E9%96%80%E3%81%AE%E4%BC%9A

項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。范増は南向き、劉邦は北向き、張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。

そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。

しかし、劉邦が卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。

三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。

これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。

この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊噲に事態の深刻さを伝えた。樊噲は髪を逆立てて護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。

項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊噲はそれを一気に飲み干した。更に、豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊噲は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。

ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊噲は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。秦王は暴虐で、人々は背きました。懐王は諸将に、先に咸陽に入ったものを王にすると約束しました。沛公は先に咸陽に入りましたが、宝物の略奪もせず、覇上に軍をとどめ、将軍(項羽のこと)の到着を待っていました。関に兵を派遣したのも、盗賊と非常時に備えるためです。未だに恩賞もないのに、讒言を聞き入れて功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではありませんか」と述べた。これに対して項羽は返す言葉がなく、「それほど心配なら、ここに座っても良いぞ」と言うのみだった。

その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊噲と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。

贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。

さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。



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