(熊井啓への旅)
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma51.html
昭和二十四(一九四九)年七月五日の事件当日、下山(しもやま)定則(さだのり)(初代国鉄総裁)は、奇妙な行動を取っている。
朝、定刻に運転手が車で迎えに来て東京大田区の自宅を出発するが、独り言のように「佐藤さんの所に寄るのだった」と言う。運転手がそっちの方向に回るか尋ねると、「いや、いい」と応え、東京駅のロータリーまで来ると、国鉄本庁を目の前にして「買い物がしたいから三越に行ってくれ」と命じ、「今日は十時ま でに役所に行けばいいのだから」とつぶやく。
この「佐藤さん」とは、衆議院議員(注:当時は民主自由党
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
の政調会長であった)の佐藤栄作(のちの首相)のことである。下山は旧鉄道省時代から佐藤とは顔見知りだった。
(注:下山が東京鉄道局長に就任したころの運輸次官が佐藤だった)
☆「下山事件」を歩く (下)
(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/shimoyama2.htm
三越本店から下山総裁を乗せて走り去った車は、意外な所で目撃されています。
矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」では「その日撃者ほ(原文ママ)大津正氏といって、後で総理大臣になった佐藤栄作氏の秘書だった。
佐藤氏と下山総裁はともに国鉄官僚で師弟の間柄だったが、この二人のとりもちを日ごろからしていたのが大津氏だった。
その大津氏が事件の七月五日昼前、国会議事堂横ですれちがった車のなかに下山総裁をみたというのである。
この大津氏の目撃は事件の翌日の七月六日の読売新聞紙上につぎのように報じられていた。五日午前十一時ころ、所用で平河町の民主自由党本部から日比谷へ車を走らせている途中、逆に都電議事堂前停留所のほうから平河町へ向かって走る自動車とすれちがったが、この事のなかに、二、三人の男に前後左右を囲まれた下山さんらしい人をみた。ふだん下山さんの乗る車でない に総裁が乗っているのが不思議だと思った。」とあります。
他の下山総裁を知らない人の目撃談とは違い、よく知っている人の目撃談は真実味があります。
特に下山総裁の乗っていた車が、ビュイック41年型ではなかったのを目敏く見つけています。このあと自動車に乗った下山総裁の目撃証言は途絶えます。
☆『下山事件〈シモヤマ・ケース〉』読了(5/6)
http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/69f994239f7044d13e4ac97c42c3292b
「・・・佐藤(栄作)に頼まれて、下山事件の下手人を逃がすために弘済会を利用させたんだ」(p.347)。
☆下山事件:白洲次郎との3日前の謎の宴席(西銀座・出井、いづゐ)
(つぶやき館)
http://madonna-elegance.at.webry.info/201210/article_27.html
東北電力が下山事件を考える際、最終のキーポイントになるわけである。
下山事件の一ヶ月前、6月3日にGHQから国内電源開発への巨額資金投入が示されていた。
この巨額資金で東北本線電化を行なえば国鉄に莫大な見返り利権が生じることになる、わけであった。
ここで下山総裁は東北本線総電化には反対で国鉄内合理化を第一の手段と考えていた。
☆ニッポン魔の三角地帯・日本橋室町――下山事件にSの影(上)。
(純良帝國)
http://punkhermit.jugem.cc/?eid=3449
ここで柴田は、自著の「下山事件 最期の証言」に記したように、東北本線の電化計画説を紹介する。当時の国鉄には、組合員を中心とする大量解雇の見返りとして、GHQから東北本線の電化に関する融資計画が持ちかけられていたというのだ。
(東北本線の電化!)
即ち、これは東北地区の電源開発とセットで、本線の電化を進めるというものである。
どんな鉄道経営者でも、大型の電化計画の融資の話は願ってもないことであったろう。ところが下山総裁は、この電化計画に反対の立場をとっていたという。
(ははぁ、下山は『鉄』だからなぁ)
ここでは反対の理由を挙げていないが、柴田は、GHQにとり、下山は国労を叩く障害となったからではなく、電化計画の障害となったから消されたとする説を取っている。
☆ニッポン魔の三角地帯・日本橋室町――下山事件にSの影(中)。
(純良帝國)
http://punkhermit.jugem.cc/?eid=3450
「私が下山事件に興味を持ったのは平成三年七月、旧満州特務機関の残党の『亜細亜産業』という貿易会社が事件に関与していたという情報を得たことが発端だった。この会社は別名『Y機関』と呼ばれ、三越に近い室町三丁目のライカビルに事務所があった。
(略)
当時は、佐藤栄作も児玉誉士夫も「亜細亜産業」にしょっちゅう出入りしていた。今なら考えられない。この「亜細亜産業」とは、裏を返せば敗戦前の「Y機関」そのものであり、その「Y」とは、上海でその特務機関を立ち上げた矢板玄その人のことだ。
☆ニッポン魔の三角地帯・日本橋室町――下山事件にSの影(下)。
(純良帝國)
http://punkhermit.jugem.cc/?eid=3451
白洲の東北電力会長就任に疑念を拭えなかったこちらにも、下山事件の裏に東北電力の電源開発があったと知って、なるほどと膝を打った。8月には三鷹で三鷹事件、そして福島では松川事件が発生しているが、特に松川事件は、同じように関東軍特務機関員であった中島辰次郎が、後にGHQの工作員として関わったと証言したことがある。
(略)
下山の説得にあたったか、脅迫したかハッキリしないが、只見川の電源開発計画の推進のために白洲次郎が何らかの功績があったと認められれば、東北電力の会長職は見返りに与えられても不思議はない。
☆佐藤栄作
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C
1924年5月、鉄道省に入省。
以後、鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。
1944年4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍と対立したためとする説がある。
長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている。
1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(現・大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した。
☆大津正
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%AD%A3
大津 正(おおつ ただし、1909年 -1997年1月29日 )は政治家秘書。岸信介、佐藤栄作に仕えた。
1909年 - 山口県熊毛郡田布施町に生まれる
中央大学卒業
岸信介の秘書となる
1948年 - 佐藤栄作官房長官秘書官に就任
1964年11月 - 佐藤内閣成立に伴い、内閣総理大臣政務秘書官(首席秘書官)に就任
1967年 - 首席秘書官を楠田実に譲る
1971年 - 再び首席秘書官に就任
1972年 - 佐藤の首相辞任に伴い、首席秘書官退任
1991年 - 大利根カントリークラブ社長に就任、以後、死亡時まで務める