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2013年6月8日土曜日

〔生活保護法改定問題〕生活の党は「無理押し」せずにいったん退いたほうが良いと思う



















☆島津義弘

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。

島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この逃走劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した(直政はこのとき受けた傷がもとで後年病に倒れ、死去したとされている。また忠吉が負傷したのは開戦当初とする説もある)。しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。

このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦並びに東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。



☆関ヶ原の戦い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」が開始される。島津義弘隊1,500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を開始する。西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は強行突破に成功。続いて松平、井伊、本多の3隊が迎撃するも突破される。この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無くなってしまう。島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いたとされる。が、島津隊は直前で転進。家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始。松平、井伊、本多の徳川諸隊は島津隊を執拗に追撃するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みる。

実際、決死の覚悟を決め、死兵と化した島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は申の中刻に狙撃され負傷し、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。徳川諸隊は、島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれた事と、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことから深追いは避けた。

一方の島津隊は島津豊久や長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも撤退に成功した。盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。

やきとりのいない八月

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