(サーチナ)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130629-00000032-scn-cn
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/132.html
鳩山氏は安倍晋三首相が、「自由と繁栄の弧」の構築により中国を孤立させようとするやり方を続けていることを批判した。鳩山氏は、「麻生太郎氏が首相だったころ、価値観を基盤とする外交政策、すなわち自由・民主の資本主義国家による自由と繁栄の弧を共同構築し、中国を包囲し孤立させようとする政策を提唱した。現在、安倍首相もこの政策を継続しようとしている。この外交政策は実現が不可能であり、日本が中国を孤立させようとしても、逆に孤立に追い込まれる恐れがある」と指摘した。
《おまけ》
☆小牧・長久手の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。
(略)
戦況は信雄・家康側に有利に移行したが、秀吉側の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀・伊勢に侵攻し、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ信雄に精神的に圧力を加えた。 秀吉は合戦から半年以上経った11月11日(11月15日説あり)に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は11月21日についに兵を引いた。
(略)
信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより制圧されることになる。
この後、佐々成政が雪深い立山を越えて(さらさら峠越え)、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を促したが聞き入れられず、成政は空しく同じ道をたどって越中に帰っていった。これによって、天下の趨勢は更に秀吉政権確立へと進んでいくこととなったが、秀吉と家康が講和するまでには、まだ2年もの月日を必要とした。