(共同通信)
http://www.47news.jp/CN/201306/CN2013062901002086.html
「憲法改正の前にやるべきこと」として、衆院選挙制度と公務員制度の改革を挙げ、すでに発表した公約に盛り込まれた改憲の発議要件を緩和する96条改正を除外した。
《おまけ》
☆筒井順慶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。光秀は順慶が信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。そのため、光秀からは変の後即座に味方になるよう誘われた。
順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。その後も評定を重ね、一度河内へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。11日には、順慶が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。
光秀は親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、所謂洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。