(朝日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160804-00000102-asahi-pol
http://archive.is/lXWEW
鶴保庸介沖縄・北方相は4日の就任会見で、「沖縄の振興策と基地問題は確実にリンクしている」と述べ、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設作業が遅れた場合、沖縄振興予算を減らす可能性に言及した。
(略)
菅義偉官房長官もこの日の会見で「工事が進まなければ予算も少なくなるのは当然のことだ」と強調。
《おまけ》
☆三木合戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城した。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、みきのほしごろし)と呼ばれる。
☆鳥取城 ~ 秀吉の鳥取城攻略戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E5%9F%8E#.E7.A7.80.E5.90.89.E3.81.AE.E9.B3.A5.E5.8F.96.E5.9F.8E.E6.94.BB.E7.95.A5.E6.88.A6
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。
陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。
このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。
信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。
城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。