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☆フクシマウォッチ:小泉元首相、原発ゼロ政策を公然と主張
(ウォールストリート・ジャーナル)
http://realtime.wsj.com/japan/2013/10/03/%E3%83%95%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81%EF%BC%9A%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%85%83%E9%A6%96%E7%9B%B8%E3%80%81%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%82%BC%E3%83%AD%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%82%92/
また野党の一部では、支持率を上昇させるために脱原発を旗印に結束する動きもみられる。
みんなの党の渡辺喜美代表は1日、先週小泉氏と会談した際に原発ゼロを目指す姿勢を見て「大きな勇気」が得られたと語った。さらに「危機認識を共有できる偉大な政治家が現れた」と述べ、小泉氏との連携を模索していく意向を示した。
(略)
また、事故からの2年半の間、原発に反対する国民感情が強いにもかかわらず、反原発運動は、小泉氏のようなその言動が広く注目される指導者を中心に一つにまとまることがなかった。
☆「脱原発」小泉氏に宿敵エール 菅元首相は「大歓迎」
(朝日新聞)
http://www.asahi.com/politics/update/1003/TKY201310020860.html
http://www.peeep.us/08ad9ec3
小泉純一郎元首相の「脱原発」発言に、小沢一郎・生活の党代表、民主党の菅直人元首相が相次いで賛同を表明した。
☆「小泉さんは特異な能力をお持ち」民主・大畠幹事長
(朝日新聞)
http://www.asahi.com/politics/update/1003/TKY201310030264.html
http://www.peeep.us/802a28fa
脱原発の話をされたということだが、自民党の元総理でもありますし、自民党内部でどう受け止められるのかが第一。
《原発派・反原発派のどちらが天下をとっても、小泉家は生き残る》
☆真田信之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B
秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。父と弟・信繁は三成ら西軍に付いたのに対し、信幸は家康ら東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩主となったが引き続き沼田城で本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀伊九度山へ流罪となる。
☆前田利政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%94%BF
利家の死後に慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如利長たちは金沢へ引き返した。一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる。このため合戦に間に合わなかった。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣した際に利政は動かなかった。その原因は妻が三成の人質となっていたためとも、元々豊臣方であったためとも、どちらが敗れても前田氏の家名を残そうとする策であったともいわれる。