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2013年10月24日木曜日

脱原発派・原発推進派のどちらが勝っても自民党が生き残る「仕掛け」を構築へ

☆小泉純一郎vs読売新聞 紙上で「脱原発」バトルの茶番
(日刊ゲンダイ。10月21日)

http://gendai.net/articles/view/news/145366

http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/291.html

首都大学東京教授の宮台真司氏(社会学)はこう言う。

「日本は東京五輪を控え、将来、福島原発事故の影響を心配する世界から『脱原発』を求められるかもしれない。その時、自民党が『原発推進』だけだと政権運営が難しくなる。だから、小泉氏は、大勢に影響を与える心配がない今のうちに進んで発言し、自民党内に一定の『脱原発グループ』をつくろうと考えた可能性はあります。真に受ける気にはなれません」




《関ヶ原でどっちが勝っても真田家と前田家は生き残った》

☆真田信之

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B

秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。父と弟・信繁は三成ら西軍に付いたのに対し、信幸は家康ら東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。

戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩主となったが引き続き沼田城で本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀伊九度山へ流罪となる。



☆前田利政

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%94%BF

利家の死後に慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如利長たちは金沢へ引き返した。一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる。このため合戦に間に合わなかった。

金沢城へ引き返したあと利長が再出陣した際に利政は動かなかった。その原因は妻が三成の人質となっていたためとも、元々豊臣方であったためとも、どちらが敗れても前田氏の家名を残そうとする策であったともいわれる。



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