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2013年10月12日土曜日

〔占断〕小沢一郎氏は小泉細川新党と「脱原発」で国共合作するだろう

天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/388972552720117760
【小泉純一郎元首相と細川護煕元首相が連携し「脱原発新党」を旗揚げか】(夕刊フジ)
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/163.html
小泉氏と細川氏の連携は、今後急ピッチで進むでしょう。そして来年2014年の4月7日以降には、細川氏が正式に脱原発新党の「主立った座」(おそらく党首)に就くことになるでしょう。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/388976381054291969
特に同年4月12日~5月9日にかけての期間に、その動きが顕在化することになるでしょう。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/388980456588210177
細川氏にとっての「もう一つの政治的ピーク」は、同年8月24~9月19日にやってきます。これは4月12日~5月9日にかけての「最初のピーク」よりも、数倍大きなエネルギーを伴っています。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/388981664933613568
従いまして、最初のピーク期間には小泉―細川―渡辺(喜美)による「脱原発新党」の立ち上げと今後の党の方向性が示されるといった形になり、そこから人集めと幾らかの離合集散三ヶ月余を経て二回目のピークが訪れた時に、遂に満を持していた細川氏が党首の座に就くという運命的な流れも同時に存在しています。


天瀬妃美花
https://twitter.com/nekomimimikon/status/388983692795711488
さて、気になる小沢氏の「脱原発新党」への合流の有無ですが、私は有ると見ます。そして、それは細川氏が迎える「第二のピーク」期間に実現するでしょう。




《おまけ》

☆国共合作

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C

国共合作(こっきょうがっさく)とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に亘り中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」は中国語で協力関係を意味する。



☆反客為主

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%AE%A2%E7%82%BA%E4%B8%BB

反客為主(はんかくいしゅ)は三十六計の三十計である。
「客を返して主(あるじ)と為す」

敵にいったん従属あるいはその臣下となり、内から乗っ取りをかける計略。時間をかけて行うべきものとされる。

秦の滅亡後、項羽の兵力は圧倒的であった。劉邦は保身のため、項羽の専横に対して忍従しつつも左遷地の漢中で兵力を蓄え、機を捉えて項羽を滅ぼした。

曹操の配下となった司馬懿は、野心を隠して警戒心の強い曹操によく仕え、曹丕、曹叡の下で重臣となった。曹叡の死後、曹爽は司馬懿を除こうとしたが、249年に司馬懿は郭太后を利用して権力を曹爽派から奪った。さらに251年には皇族の曹氏をすべて鄴に軟禁。その孫の司馬炎が魏の乗っ取りを完成させて晋を建国した。



☆陳平

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3

紀元前190年に曹参が死んだ後で左丞相(副首相格)に任じられて、その後の呂雉の専権時代には面従腹背の姿勢を保ち、呂雉と対立して失脚した王陵の後を受けて右丞相(正宰相格)となった。しかし呂氏が中央の兵権を完全に握っているなど右丞相には権力がなく、実質的に名のみの役職であった。陳平も酒と女に溺れ骨抜きになったふりをし、呂雉や夫(樊噲)を捕らえられた恨みを持つ呂須から警戒心を持たれないようにして粛清の嵐を避け、反攻の機を伏して待った。

紀元前180年に呂雉の死を機として、陸賈の助言により陳平は宴会に見せかけ、宮廷内で大尉・周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに人脈を築き、打ち合わせを重ねていった。

諸侯の監視を徹底していた呂氏も、酒好き女好きの右丞相が行う宴会なので、警戒をしなかった。そして斉王の蜂起と、その討伐に出した灌嬰の寝返りなどに動揺する宮中において策略を用い、周勃などとともに呂雉の甥である呂禄の不安を煽らせるため、呂禄の友人である酈奇の親酈商に迫り、酈奇から「いつまでも中央に居るので、野心があるのではないかと疑われ天下が騒がしくなっています。領地は諸侯も重臣も認めており、帰国すれば疑いも晴れ安泰です」と吹き込ませた。呂禄はそれに従い兵権を返上し、周勃が兵権を取り戻す。

そしてその兵と築きあげた人材・情報網で、別の甥・呂産の帝位簒奪クーデターを鎮圧。これを口実として呂氏を皆殺しにする逆クーデターを実行し、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を立てた。




☆陸賈

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%B3%88

劉邦が死に、呂雉による専横が始まると病と称し引退する。引退後、南越王趙佗から頂いた宝を千金で売り渡し、その金を5人の息子に分け与え独立させ、楽士を数人引き連れ息子たちの元へ訪れるという、年2回巡業の旅に出ていた。

呂雉が死に、専横の呂氏を討つために陳平の家へ突如として現れ、陳平に助言して日頃から陳平と仲が良くなかった周勃を引き合わせ、自らも陳平から資金を貰い呂氏討伐の策を練った。

その後、陳平らが呂氏を討つと多額の褒美を得ることになり、文帝に太中大夫として再び漢に仕え、南越などの国へ再び説客として回った。のちに天寿を全うした。

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