このブログを検索

2012年7月7日土曜日

〔メモ〕1960年安保デモで岸信介首相(当時)は自衛隊の治安出動を決断


2007年5月12日の「天木直人ブログ」
http://www.amakiblog.com/archives/2007/05/12/#000375

 ・・・午前零時が近づくと、岸は蒼白になってふるえだした。不安になったのか、しきりに自衛隊を出動させろと迫った。自衛隊の一部は市ヶ谷に待機していると報告されているが、もっと近くに置けないかと催促したりした。防衛庁長官の赤城宗徳が強硬に反対し、自衛隊出動は見送られた・・・赤城は「自衛隊を出動させることは国民の血を流すことです。同胞を撃つ事はできません」と断固はねつけた。そのうえで、「もしどうしても自衛隊を出動させるというなら、私を罷免してからにしなさい」と岸につめよったという。それで岸はあきらめたとされている・・・(もしあのとき)自衛隊が出動して鎮圧することになっていたら、それ以後の自衛隊は国民の共鳴、共感を受ける事なく、憎しみの対象として存在する事になったはずだ。同時に、日本に、自衛隊のような軍事組織が存続しえたか否か、疑問である。なぜなら自衛隊は首相の私兵であり、国民に銃を向ける組織である、との理解が根付いてしまったに違いないからだ。この点で、私は赤城防衛庁長官こそ戦後日本の危機を救った政治家だと思う・・・




☆安保闘争

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89

このように激しい抗議運動が続く中、岸は15日と18日に、防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、国家公安委員長石原幹市郎が反対し、赤城も出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。



☆赤城宗徳

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%E5%AE%97%E5%BE%B3

第二次岸内閣で内閣官房長官、そして、日米安保条約改定をめぐる政局では、1959年(昭和34年)第2次岸内閣改造内閣にて主務大臣である防衛庁長官に就任する。1960年(昭和35年)、安保改定に反対する数万人規模のデモが連日国会を囲む中、岸首相に自衛隊の治安出動を打診されるが、“自衛隊が国民の敵になりかねない”と反対したことで知られる。



☆石原幹市郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%B9%B9%E5%B8%82%E9%83%8E

1947年初代民選福島県知事。

(略)

1949年、参議院議員補欠選挙で福島県選挙区から民主自由党公認で立候補し、当選。

(略)

1960年7月1日、第2次岸内閣で初代自治大臣に任命された。安保闘争時国会が暴力的に包囲され、時の岸信介首相が自衛隊の治安出動を決断したが、石原は「国民に銃を向けることは許されない」などとして国家公安委員長権限でこれを拒否し、流血の事態を避けた。



やきとりのいない八月

飛び地A

ブログ アーカイブ

The Daily Star(レバノン)

Rudaw(イラク)