☆光州事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
マスコミは軍部の完全統制の下で何も報道しておらず、事件は金大中が市民・学生らを扇動し起こされたという風説を軍部は意図的に流した。 東京在住特派員であったドイツ人記者ウィルゲン・ヒンツペンターにより、ドイツなど諸外国では事件の経過について詳しく報道されていた。
1980年
5月21日、市民は亜細亜自動車や、軍需関係工場,予備軍の武器庫を襲撃して、装甲車などの車両や銃器やTNT爆薬なども奪取し、全羅南道庁を占拠した。光州での惨状を知らせるため、市外に向かうデモ隊の一部が、その途中にあった光州刑務所の戒厳軍から刑務所奪取だと誤認され、銃撃をうけた。軍は一時撤退した後、光州市と外部の鉄道、道路及び通信回線を遮断した。
5月22日、陸軍部隊が光州市の包囲を完了。「市民収拾対策委員会」が組織され、軍との交渉を開始したが、抗争隊指導部は軍との妥協に反対し、光州市民側にも「事態収拾派」と「抗戦派」の意見の対立が現れ始める。市民に、更なる抗争を恐れた離脱者が出始める。