(産経新聞)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131114/crm13111417510013-n1.htm
http://www.peeep.us/1f6f9145
「犯人は私ではない。私は近くに寄って、すぱっといくから。間接的な殺人はしない」とも述べた。
鴻池氏は7日の派閥会合でも、山本氏について「天誅を加えなきゃいかん」と非難していた。
☆二・二六事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。
山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
(略)
1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。
(注釈)山下奉文少将は決起趣意書の草案を見ており、筆まで加えたと栗原安秀は述べている。
↓
http://www.c20.jp/text/msasyowa.html
山下は再び「よう聞け」といって三度に亙って読み、ほかには一語も発せず、さっさと引返して行った。
これが青年将校を煽ててきた山下の態度だったのだ。 これが「岡田(首相)なんかぶった斬るんだ」と青年将校らの前で豪快に放言していた同一人であった。
松本清張 「昭和史発掘(10)」 P.266