(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013111202000129.html
http://www.webcitation.org/6L3pY2Tg2
「原発ゼロ」を目指す活動について「政局的な連携でない方が広がっていく。幕末も薩長土肥が攘夷(じょうい)で一致した」と、政党レベルではなく、国民運動として発展させていくべきだと訴えた。
《小泉~細川ライン(官軍)が脱原発運動の主導権を握れば、山本太郎議員(ニセ官軍)は背後から鉄砲を撃たれるものと予想される》
☆相楽総三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A5%BD%E7%B7%8F%E4%B8%89
その後、西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった。運動とはいえ総三らがやったことは、掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実とするためであった。
西郷の策は成功し、屯所を襲撃された庄内藩が、薩摩藩邸を焼き討ちする(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。これが、鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。
なお、当時の西郷の手紙では薩摩藩邸の焼き討ちの結果に狼狽している様が残っており、西郷は浪士隊の行動を掌握し切れていなかったとの説もある。
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍するが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は下諏訪宿で捕縛される。手を下したのは官軍参謀、進藤帯刀である。
☆赤報隊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A0%B1%E9%9A%8A
薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て、1868年(慶応4年)1月8日に近江国松尾山の金剛輪寺において結成される。隊長は相楽総三で、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立する。
(略)
相楽総三は、薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、江戸市内において旧幕府軍に対する挑発的行為として工作活動などを行い、これが戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いのきっかけにもなった。
赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得た。しかし、新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し、年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことであるとして、公家の高松実村を盟主としていた高松軍とともに偽官軍の烙印(同年2月10日付け「回章」)を押した。
一番隊は信濃国へ進むと中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を拠点としたが、新政府軍は信濃各藩に赤報隊逮捕の命令を下し、2月17日には追分宿で小諸藩などに襲撃され惨敗。3月3日、下諏訪宿の外れで相楽らは処刑された。しかし、赤報隊に加わっていた公家は処刑から外された。赤報隊は、新政府によって使い捨てにされたといえる。