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2013年1月10日木曜日

〔ルワンダ〕大衆の怒りの矛先を少数民族に向けさせるための「世論誘導システム」の構築


Mille Collines Free Radio and Television=RTLM(ルワンダ千の丘自由放送局)や雑誌「カングラ」が、民衆に扇動的役割を果たした。識字率の低いルワンダでは、ラジオが民衆の扇動に効果を果たした。

Mille Collines Free Radio and Television=RTLM(ルワンダ千の丘自由放送局)は、ルワンダの大衆の怒りの矛先を為政者にではなく、少数民族にぶつけさせる役割を果たした。



Angama
https://twitter.com/Angama_Market/status/289114326185439233
ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、堅苦しい国営放送のラジオ・ルワンダと異なり、若者向けの音楽を用いた煽動にも力を入れていた。シモン・ビキンディによるフツの結束を訴えた曲、『こんなフツ族は嫌い』が代表的な作品として知られている。




邦文論文「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」 

ルワンダにおける1994年のジェノサイド
―― その経緯,構造,国内的・国際的要因 ――

饗場和彦(徳島大学総合科学部)

(注:PDF)
http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/soc/soc19-3.pdf


90年に RPF の侵攻が始まると,反ツチの動きが広まった。その中で政党,組織などを横断して強硬なフツ至上主義を掲げる人々の集まり「フツ・パワー(Hutu Power)」が台頭し,その急進派の一部がジェノサイドの計画,実行に及んだ。彼らは政権に近い政治的,軍事的,経済的エリートであり,多くがジェノサイド発生直後に作られた臨時政府のメンバーとなっている。「ルワンダ国際刑事法廷(ICTR)」では当時の閣僚ら多数のフツ政権幹部をはじめ,軍人,高官,ジャーナリスト,教会関係者ら約70人がジェノサイド,人道に対する罪などで拘束されている。特にジェノサイド時,首相に就いていたジャン・カンバンダは自らジェノサイドの画策,実行を認め,98年9月,有罪判決(終身刑)を得ている。

(略)

それでも政府に対抗する国内の野党・反対勢力に対しては「RPF の手先だ」などと批判し,抑圧,弱体化を図った。さらに,反ツチを言うことで,RPF 以外の国家の不安定要因すべてをツチのせいにして政府の失政から目をそらすという,スケープゴートによる責任転嫁の効果ももくろめた。

こうした民族問題の政治化政策は,従来もともと存在してきたフツ・ツチの対立・分断関係と,政治・政府への不満とあいまって,過激な反ツチ主義として次第に拡散,それに伴い90年から93年にかけて4件,国内ツチに対する大量殺害事件が発生し,94年にジェノサイドが起きる前にすでに合計で約3000人のツチが犠牲になった。

このように,ハビャリマナは RPF の撃退と国内統治の安定化のため,反ツチを掲げる「民族問題の政治化」政策をとったのだが,それは突き詰めれば自らの権力基盤の立て直しとその継続という動機があったためであった。

ハビャリマナ自身はジェノサイドまで意図していなかったとみられるが,過激な反ツチ主義を活性化させた点において,土壌を「引火」させる外部要因を提供したことになる。

(略)

フツ・パワーは,RPF の侵攻が進むほどに,支持を拡大していったが,その支持拡大に奏効したのが,メディアを使ったプロバガンダであった。彼らは新聞『カングラ』(90年創刊),「ミルコリンヌ(千の丘)自由ラジオ・テレビジョン(RTLM)」(以下,千の丘ラジオ,93年設立)を作り,その中でツチへの対抗・排除を促すメッセージを大衆に送った。識字率が高くないルワンダ社会では,とくにラジオによる影響力が強く,殺害の現場にはたいていラジオがあったという。

メッセージは,「国内外のツチが一体化してルワンダ社会に浸透しようとしており,彼らはフツを大量に殺害して過去のツチ政権の再現を狙っている。数世紀前にツチの侵略で被害を受けた我々,無実のフツは,団結して自衛のためツチの排除にあたらねばならない」といった趣旨で語られ,ツチをナチスやゴキブリ,ヘビ,ばい菌になぞらえる中傷も伴って人々に浸透した。

“殺しの理屈”の要旨は, フツかツチかというアイデンティティを唯一の判断基準とする,帰属の絶対化,フツとツチは敵同士であり,ツチはフツから権力を奪おうとしているとする,対立の絶対化,こうしたツチに対抗するために暴力が肯定されるとする,暴力の正当化 ―― の3点から成っていた。




☆NTV Investigates: In the footsteps of Kabuga
(ケニア国営放送)

http://youtu.be/Gpxy4NxqboQ

He has been on the run for more than 18 years, and for much of that period, Kenya has stood accused -- rightly or wrongly remains the question that today, we shall confront.For more than seven months, NTV's John - Allan Namu has been investigating claims that Kenya is harbouring Felicien Kabuga, a man wanted by the International Criminal Tribunal for Rwanda (ICTR) for his alleged role in the 1994 genocide, that claimed an estimated 800,000 lives. Our investigations were grueling as they were frustrating as they expectedly teetered on the brink of the very futility that has attended to all previous attempts to locate the whereabouts of Felicien Kabuga. But in the process, our investigative team led by John-Allan Namu came across several curious pieces of information and varied claims that suggest that the alleged presence of Felicien Kabuga is a question Kenya is yet to conclusively deal with.



☆Rwandan Genocide Project (RTLM Radio)

http://youtu.be/GeVa6U9yLCc

RTLM Radio 5




《ルワンダの「千の丘自由放送局(RTLM)」》

ルワンダの「千の丘自由放送局」
=Mille Collines Free Radio and Television


☆ウィキペディア「ルワンダ紛争」の項→

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B4%9B%E4%BA%89

この紛争では、ラジオ放送がツチへの敵愾心を煽る放送を流したことが、一般人までもが虐殺に荷担することにつながった。



☆ルワンダ虐殺

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E8%99%90%E6%AE%BA

ルワンダ虐殺当時の首相であったジャン・カンバンダは、ルワンダ国際戦犯法廷の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決する"と話していた」と証言している。

(略)

研究者の報告によれば、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行った。

当時のルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられている。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。

ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。現在進行中のルワンダ国際戦犯法廷では、カングラの背景にいた人物たちを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(What shall we do to complete the social revolution of 1959?)』の文章を記したチラシを製作した件で告発した(なお、このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化した)。カングラはまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行った。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画 (Tutsi colonization plan)」などがある。

ルワンダ虐殺当時、ルワンダ国民の識字率は50%台であり情報リテラシーが低かったことや、歴史的な封建主義的社会のシステムに由来する権力への盲追傾向から、政府が国民にメッセージを配信する手段としてラジオは重要な役割を果たした。

ルワンダの内戦勃発以降からルワンダ虐殺の期間において、ツチへの暴力を煽動する鍵となったラジオ局はラジオ・ルワンダとミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン (RTLM) の2局であった。ラジオ・ルワンダは、1992年3月に首都キガリの南部都市、ブゲセラ (Bugesera) に住むツチの虐殺に関して、ツチ殺害の直接的な推奨を最初に行ったラジオとして知られている。同局は、コミューンの長であったフィデール・ルワンブカや副知事であったセカギラ・フォスタンら反ツチの地方公務員が主導する「ブゲセラのフツはツチから攻撃を受けるだろう」という警告を繰り返し報道した。この社会的に高い地位にある人物らによるメッセージは、フツに"先制攻撃することによって我が身を守る必要がある"ことを納得させ、その結果として兵士に率いられたフツ市民やインテラハムウェのメンバーにより、ブゲセラに暮らすツチが襲撃され、数百人が殺害された。

また、1993年の暮れにミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、フツ出身のブルンジ大統領メルシオル・ンダダイエの暗殺事件についてツチの残虐性を強調する扇情的な報道を行い、さらにンダダイエ大統領は殺害される前に性器を切り落とすなどの拷問を受けていたとの虚偽報道を行った(なお、この報道は、植民地時代以前におけるツチの王の一部が、打ち負かした敵対部族の支配者を去勢したという歴史的事実が背景にある)。

さらに、1993年10月下旬からのミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは「フツとツチ間の固有の違い、ツチはルワンダの外部に起源を持つこと、ツチの富と力の配分の不均一、過去のツチ統治時代の恐怖」などを強調し、過激派フツの出版物に基づく話題を繰り返し報道した。また、「ツチの陰謀や攻撃を警戒する必要があり、フツはツチによる攻撃から身を守るために備えるべきである」との見解を幾度も報じた。

1994年4月6日以降、当局が過激派フツを煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ市民を煽動、動員し、殺害の指示を与える目的で使用されたことが知られている。

上記に加え、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ツチ系難民を主体としたルワンダ愛国戦線のゲリラを、ルワンダ語でゴキブリを意味するイニェンジ (inyenzi) の語で呼び、同ゲリラが市民の服装を着て戦闘地域から逃れる人々に混ざることに特に注意を促していた。これらの放送は、全てのツチがルワンダ愛国戦線による政府への武力闘争を支持しているかのような印象を与えた。

また、ツチ女性は、1994年のジェノサイド以前の反ツチプロパガンダでも取り上げられ、例えば1990年12月発行のカングラに掲載された「フツの十戒」の第四には「ツチ女性はツチの人々の道具であり、フツ男性を弱体化させて最終的に駄目にする目的で用いられるツチの性的な武器」として描写された。新聞の風刺漫画などにもジェンダーに基づくプロパガンダが見られ、そこでツチ女性は性的対象として描かれた。具体的な例として「ツチの女どもは、自分自身が我々には勿体ないと考えている (You Tutsi women think that you are too good for us)」とか「ツチの女はどんな味か経験してみよう (Let us see what a Tutsi woman tastes like)」といった強姦を明言するような発言を含む、戦時下の強姦(英語版)を煽るような言説が用いられた。

また、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、堅苦しい国営放送のラジオ・ルワンダと異なり、若者向けの音楽を用いた煽動にも力を入れていた。シモン・ビキンディによるフツの結束を訴えた曲、『こんなフツ族は嫌い』が代表的な作品として知られている。

なお、同様のメディア・プロパガンダにより、隣国のブルンジでも1993年のンダダイエ大統領暗殺によりブルンジ虐殺が発生し、約5万人の市民が殺害され、約30万人が難民化した。




☆Radio Télévision Libre des Mille Collines

http://en.wikipedia.org/wiki/Radio_T%C3%A9l%C3%A9vision_Libre_des_Mille_Collines

Radio Télévision Libre des Mille Collines (RTLM) was a Rwandan radio station which broadcast from July 8, 1993 to July 31, 1994. It played a significant role during the April–July 1994 Rwandan Genocide.



Prior to the Genocide

RTLM was established in 1993, primarily railing against on-going peace talks between President Juvenal Habyarimana, whose family supported the radio station, and the Tutsi Rwandan Patriotic Front. It became a popular station since it offered frequent contemporary musical selections, unlike state radio, and quickly developed a faithful audience among youth-aged Rwandans, who later made up the bulk of the Interahamwe militia.

Félicien Kabuga was allegedly heavily involved in the founding and bankrolling of RTLM, as well as Kangura magazine. In 1993, at an RTLM fundraising meeting organized by the MRND, Felicien Kabuga allegedly publicly defined the purpose of RTLM as the defence of Hutu Power.

The station is considered to have preyed upon deep animosities and prejudices between the Hutu and Tutsi populations. The hateful rhetoric was placed alongside the sophisticated use of humor and popular Zairean music. It frequently referred to Tutsis as "cockroaches" (example: "You [Tutsis] are cockroaches! We will kill you!").

Critics claim that the Rwandan government fostered the creation of RTLM as "hate radio", to circumvent the fact they had committed themselves to a ban against "harmful radio propaganda" in the UN's March 1993 joint communiqué in Dar es Salaam. However RTLM director Ferdinand Nahimana claimed that the station was founded primarily to counter the propaganda by RPF's Radio Muhabura.

In January 1994, the station broadcast messages berating UNAMIR commander Roméo Dallaire for failing to prevent the killing of approximately 50 people in a UN-demilitarized zone.

After Habyarimana's private plane was shot down on April 6, 1994, RTLM joined the chorus of voices blaming Tutsi rebels, and began calling for a "final war" to "exterminate" the Tutsi. The code word was 'cut down the tall trees'. RTLM played classical music in the time immediately after the crash.






☆'Hate radio' journalist confesses
(英国BBC)

http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/749079.stm

A European former journalist with Rwanda's notorious "hate radio" station has pleaded guilty to inciting killings during the 1994 genocide.



☆The impact of hate media in Rwanda
(英国BBC)

http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/3257748.stm

The United Nations tribunal in Arusha has convicted three former media executives of being key figures in the media campaign to incite ethnic Hutus to kill Tutsis in Rwanda in 1994.



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