https://twitter.com/mimipinpi/status/497340791438577664
1924年、第一次共産党の「解党」理由について、佐野学(第二次共産党の中央委員長)は、以下の4点を挙げている。
①権力による弾圧
②党内分派構想
③党員の腐敗
④大衆からの孤立
佐野学は、4点のうち、④の大衆からの孤立が、解党の最大の要因だったと述べている。
ポラーノ博士(学究)
https://twitter.com/mimipinpi/status/497341653900726273
戦前昭和の日本共産党を牽引し、獄中転向した佐野学が、第一次共産党解党の最大の理由を「大衆からの孤立」と述べていたことを、共産党員でなくとも、私達はよく考える必要がある。大衆を動員できなかったことが、日本のファシズム化を止められなかった要因だったということを。
《共産党を「大衆から孤立」させるためのシナリオを書いた人物》
☆飯塚盈延
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%A1%9A%E7%9B%88%E5%BB%B6
飯塚 盈延(いいづか みつのぶ、1902年10月4日 - 1965年9月4日)は、日本共産党党員で特別高等警察のスパイ。「スパイM」とも呼ばれる。変名は松村昇、峰原暁助。愛媛県出身。
1902年に愛媛県に生まれ、1909年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。そして松村(飯塚)はスパイとして党に潜入、非常時共産党時代の共産党で家屋資金局の責任者となり、「赤色ギャング」に代表されるさまざまな権力挑発的方針を指示した。その後熱海事件で共産党の代表者達を一斉検挙に追いやった。
松村がスパイであることは、同じクートヴェ帰りであった風間丈吉委員長を始めとする党の幹部から全く感づかれることはなく、一般党員も彼の過激な活動方針にほとんど疑いを抱くことなく従っていた。しかし熱海事件前後の一斉検挙後、取り調べや公判などで松村の名が出てこないことに不審をもった党員たちは、彼が警察のスパイではないかと考えるようになった。
☆赤色ギャング事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E8%89%B2%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
赤色ギャング事件(せきしょく(または、あかいろ)・ギャング・じけん)とは、1932年(昭和7年)10月6日に東京府東京市大森区(現東京都大田区)で発生した日本共産党党員による銀行強盗事件。大森事件、大森銀行ギャング事件とも。
日本最初の銀行強盗事件であり、当時のアメリカ映画に登場するギャングそのままの犯罪だったため、ギャング事件と呼ばれることになった。
(略)
当時の日本共産党は今日スパイMとして知られる松村(本名は飯塚盈延)が組織の中心になっており、戦前期最大の党組織をつくり上げていた。
(略)
強盗計画の首謀者である今泉善一の逮捕は事件後3日目で、拳銃を取引している右翼の密告があり、右翼と会う街頭連絡で逮捕された。ピストル密売のルートから糸をたぐった警察による捜査ともいわれていたが、今日ではスパイMの存在により、犯人らの動向は完全に把握されていたことが判明になっている。
☆エヴノ・アゼフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BC%E3%83%95
エヴノ・アゼフ(Evno Fishelevich Azef、1869年 - 1918年4月24日)は、ロシア帝国の革命家。エスエル(社会革命党)の幹部にして、ロシア革命史上最大の内通者、スパイとして複雑怪奇な一生を送った。
(略)
1898年大学を卒業し、電気技師の資格を得る。電気技師の傍ら、革命活動では、ロシア社会革命同盟の代表者となる。同時に御用組合の組織化による労働者の懐柔を狙う保安部長官セルゲイ・ズバートフの指導を受けながら、革命派の同志達の信頼を得ていった。1901年家族と共に出国し、ベルリンに移る。
社会革命同盟の代表であったセリュークとともに、エスエル(社会革命党)を結成する。さらにアゼフは1903年エスエル党首ゲルシューニが逮捕された後、ボリス・サヴィンコフと共に要人暗殺組織「社会革命党戦闘団」を結成し、戦闘団の指導者、党中央委員となる。実際の戦闘団の指導はサヴィンコフが行い、サヴィンコフ指揮の下に1904年内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェと皇帝ニコライ2世の叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公の暗殺に成功する。さらに内相ドルノヴォ、ミルヌ将軍等の暗殺を手がけるなど、帝政ロシア秘密警察のスパイでありながら社会革命党のテロリストとしてロシア革命で最も革命的とまで評されるまでになった。無論、一連のアゼフによる暗殺行為は秘密警察の黙認するところであったが、一部ではアゼフの行為の行き過ぎを批判する向きが秘密警察にもあった。
(略)
テロルの傍ら、当局のスパイとしての活動も怠らず、情報を流し、同志を逮捕させた他、エスエルの立てた暗殺計画を失敗に終わらせてもいる。1906年には戦闘団は活動を停止せざるを得なくなるほど追いつめられる。アゼフ自身は、党の資金2万ルーブルを借り外国に逃げた。1907年帰国し、脱走に成功したゲルシューニと戦闘団を復活させた。しかし、この頃から内通者としてアゼフの名が取りざたされるようになる。
1908年アゼフが中心になって皇帝ニコライ2世の暗殺が計画されるが、失敗する。アゼフがスパイであると告発したブルツェフは、党による査問を受けたが、アゼフをスパイとして採用したロプーヒンから、アゼフの正体が漏れることになる。しかし、この期に及んでも、エスエル党中央委員会は、アゼフの裁判なしの処刑に反対した。また、戦闘団員たちは、アゼフを信じて、アゼフ処刑の場合は、中央委員全員を射殺すると脅迫する始末であった。
党中央委員会は、アゼフを非難し、ヴィクトル・チェルノフら党幹部がアゼフのアパルトマンで査問を実施することになった。しかし、最後の瞬間、アゼフは、深夜に逃亡し姿を消す。アゼフは、西ヨーロッパを遍歴し、ベルリンに住む。以後、ベルリン、ロンドン、ニューヨークで株の売買で生計を立てる。株式仲買人として成功し、夏休みは大半を南仏で賭博に興じて過ごしていたが、1914年第一次世界大戦勃発に伴い、破産する。さらにドイツ帝国当局によって、ロシアに引き渡すべき革命家・テロリストと見なされ逮捕・投獄される。
1917年釈放され、ソビエト・ロシアに引き渡されることなく、ドイツ外務省に勤務する。1918年腎臓病のため死去。
《「スパイM」の名言》
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20130709/p1
「人間は、生まれてこないのが最も幸せだ。しかし、生まれてきた以上は、どんなことがあっても生きるべきだ。不慮の事故で死ぬべきではない、それは注意不足だ。また、自分で生命を絶つべきでもない。死ぬまで生きるべきだ。」