http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%83%A7%E4%BE%B6%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E4.BA.8B.E4.BB.B6.E3.81.AE.E7.9C.9F.E7.9B.B8
上海事変以降、日華両国の紛争は限りなく続く事になっていった。
この上海事変の引き金となった日本人僧侶襲撃事件であるが、関東軍による策謀であるとの説がある。これは当時、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)が東京裁判(極東国際軍事裁判)において、自ら計画した謀略であったと証言しているためである。
田中によると、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の首謀者であった板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐から「満州独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と工作資金2万円で依頼され、抗日運動の根拠地であった三友實業公司を買収し謀略を準備していた。
この謀略の実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子であったという。なお川島は田中の愛人であった。田中から1万円の工作資金を渡された。川島は、命令どおり中国人を雇い日本人僧侶を襲撃させたとされているが、下手人の中国人は何者であったかは明らかになっていない。
なお清朝皇族であった川島は中華民国政府から「漢奸」として1948年に処刑されたが、田中は東京裁判で検事側の証人として被告人に不利になる事を証言したことから戦犯にはならなかった。