(毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140512-00000088-mai-soci
https://web.archive.org/web/20140512211430/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140512-00000088-mai-soci
また、福島大は同日、中井勝己学長名で、漫画に載った准教授の発言内容について「大学としての見解ではない。(准教授の)個人の見解。大学人としての立場を理解したうえで発言するよう注意喚起する」との見解を発表した。
☆福島大、美味しんぼ描写は「個人の見解」
(共同通信→日刊スポーツ)
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20140512-1299966.html
https://web.archive.org/web/20140512212019/http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20140512-1299966.html
12日発売号の中で、荒木田氏は主人公らの取材を受け、除染作業の体験を基に「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと思います」と発言したとして描かれている。
福島大はコメントの中で「立場を明らかにした上での発言が掲載されたことで、福島県民をはじめとした多方面にご迷惑、ご心配をかけたことは大変遺憾」とした。
《アーカイブ》
☆「基準緩和より脱被ばく」 荒木田岳・福島大准教授に聞く
(東京新聞・特報。2013年3月14日)
http://www.asyura2.com/13/genpatu30/msg/700.html
荒木田さんは除染目標の緩和ではなく、被ばくを少しでも抑えることに集中すべきだと考える。
「居住を前提にすれば、基準を変えようという発想になるが、本当は安全か否かが肝心だ。基準を現実に合わせるのはおかしい。受け入れたくない福島の現実を直視しなくては。放射線は浴びない方がいいに決まっている。食でも、がれきでも一緒に被ばくすることを絆とは呼べない」
ただ、「脱被ばく」第一の行動が困難を伴うことも経験している。
勤務先でも、学生の被ばくを少しでも減らそうと、新潟県で集中授業をしていくことなどを提案した。だが、同僚から「お金はどうするのか」 「集中授業では身に付かない」と否定的な声が相次いで提案は頓挫した。
《歴史メモ》
☆新名丈夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%90%8D%E4%B8%88%E5%A4%AB
太平洋戦争中、1944年(昭和19年)2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に、「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を書いたため、東條英機首相が激怒し、二等兵として陸軍に懲罰召集を受けることになった(竹槍事件)。
☆竹槍事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%A7%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
竹槍事件(たけやりじけん)とは、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月23日付け『毎日新聞』第一面に掲載された戦局解説記事が原因でおきた言論弾圧事件。
問題となった戦局解説記事は同社政経部の新名丈夫記者が執筆した記事で、「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」という大見出しの下でまず「眦決して見よ 敵の鋏状侵寇」として南方における防衛線の窮状を解説し続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として海軍航空力を増強すべきだと説いている(『毎日新聞』(1944年2月23日付)の記事参照)。
これは海軍航空力増強を渇望する海軍当局からは大いに歓迎されたが、時の東條英機陸相兼首相は怒り、毎日新聞は松村秀逸大本営報道部長から掲載紙の発禁および編集責任者と筆者の処分を命じられた。
毎日新聞社は編集責任者は処分したものの、筆者である新名記者の処分は行わなかったところ、その後ほどなく新名記者が37歳にして召集された。
(略)
新名の執筆記事は「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と題して、1944年(昭和19年)2月23日付の『毎日新聞』朝刊に掲載された。
「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」
「日本は建国以来最大の難局を迎えており、大和民族は存亡の危機に立たされている。大東亜戦争の勝敗は太平洋上で決せられるものであり、敵が日本本土沿岸に侵攻して来てからでは手遅れである」
「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」
「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵の航空兵力に対して竹槍で対抗することはできない」
新名は開戦時から海軍を担当、18年1月から約半年間はガダルカナルで従軍して前線の惨状をつぶさに見聞きし、日本の窮状と大本営作戦の内容を把握していた。 この記事に東條は激怒。
陸軍報道部は、毎日新聞に処分を要求。更に内務省は掲載新聞朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達した(ただし、この時点で問題の朝刊は配達を終えていた)。
そこへ火に油を注ぐように、同日夕刊トップでは「いまや一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」と題する記事が掲載された。記事中で日本の抹殺、世界制圧を企てた敵アングロサクソンの野望に対しわれわれは日本の存亡を賭して決起したのである。敵が万が一にもわが神州の地に来襲し来らんにはわれらは囚虜の辱めを受けんよりは肉親相刺して互に祖先の血を守つて皇土に殉ぜんのみである。しかも敵はいまわが本土防衛の重大陣地に侵攻し来つてその暴威を揮ひつつある。われらの骨、われらの血を以てわが光輝ある歴史と伝統のある皇土を守るべき秋は来たのだ。
と述べており、記事の趣旨は戦争自体を肯定した上で戦況が悪化している現状を伝え、その打開策を提言したものであるが、東條は「統帥権干犯だ」として怒った。夕刊記事の執筆は新名ではなく清水武雄記者によるものだったが、この責も新名が引き受けた。
新名は責任を感じ、上司の吉岡文六編集局長に進退伺いを提出したが、吉岡はこれを受理せず、3月1日、自身が加茂勝雄編集局次長兼整理部長とともに引責辞任した。
東條の怒りはおさまらず、内閣情報局次長村田五郎に対して「竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日を廃刊にしろ」と命令した。村田は「紙の配給を停止すれば廃刊は容易」とした上で「日本の世論を代表している新聞のひとつが“あのくらいの記事”を書いたことで廃刊になれば、世論の物議を醸し、外国からも笑われます」と述べ、東條を諫めた。