☆カザフスタンの奇形の子羊:三眼八脚
(ロシア国際放送)
http://japanese.ruvr.ru/2013_03_13/107784919/
パヴロダル市(カザフスタン、パヴロダル州の行政の中心地)郊外の民家で、3つの眼と8本の脚をもつ子羊が生まれた。
《おまけ》
☆セミパラチンスク核実験場
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93%E5%A0%B4
セミパラチンスク核実験場は、旧ソビエト連邦のかつての主要な核実験場である。カザフ共和国(現カザフスタン)の北東部、セメイの西方150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000平方キロメートル(四国の面積にほぼ等しい)。
1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験に使用された。施設は最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖された。市民の被曝による影響はソ連政府によって隠蔽され、1991年の実験場の閉鎖間際まで明らかにされることはなかった。
(略)
ソ連最初の核実験RDS-1は1949年8月29日に行われた。付近の街に放射性降下物が降り注いだが、市民への避難警告はされなかった。
(略)
その後、同じ場所(クルチャトフ市から60kmほど西、地図中"Experimental field")で100回以上の地上核実験が行われた。
その後、1953年8月12日の水爆装置実験RDS-6(核融合そのものは失敗)、1955年11月22日の初の水爆実験RDS-37、核の平和利用実験などが行われた。
なお、RDS-6の実験に当たっては、付近の住民のうち一部の成人男子を放射能汚染地域に滞在させた。これは人体実験だと見られている。
またベトナムの枯れ葉剤のようにここでも奇形児が生まれ、ホルマリン漬けで保存されている。
その後放射能汚染による住民の健康被害が次第に広がり、地元の研究者たちによる調査が行われたものの、核実験を優先するソ連当局に黙殺され続けた。
ソ連末期のグラスノスチにより実験の実態が明らかになると国際的な非難が高まり、1991年8月29日に実験場は正式に閉鎖された。
(略)
放射性物質への被曝に対する影響の全貌は、ソビエト連邦の政府当局によって長期間隠蔽されていた。実験場の閉鎖後に実施された健康調査によると、実験場からの放射性降下物によっておよそ20万人の付近の住民が直接的な健康被害を受けたとみられる。特に、様々なタイプの癌の発生率が高く、また放射線被曝と甲状腺異常の間の相関性が観察されている
☆ウラル核惨事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%AB%E6%A0%B8%E6%83%A8%E4%BA%8B
ウラル核惨事(ウラルかくさんじ)は、1957年9月29日、ソ連ウラル地方チェリャビンスク州で発生した原子力事故(爆発事故)。また、後年にかけて放射性廃棄物に起因して発生する事故等も包括することも多い。
(略)
オジョルスク市(Ozyorsk)にある「マヤーク」("lighthouse" 灯台の意味)は、兵器(原子爆弾)用プルトニウムを生産するための原子炉5基および再処理施設を持つプラントであり、1948年から建設された。プラントの周囲には技術者が居住する都市が造られ、チェリヤビンスク65という暗号名を持つ秘密都市として形成された。事故は、この施設を中心に発生した。国際原子力事象評価尺度でレベル6(大事故)。
1950年代当初のソ連では、一般には放射能の危険性が認知されていない、もしくは影響を低く考えられていたため、放射性廃棄物の扱いはぞんざいであり、液体の廃棄物(廃液)は付近のテチャ川(オビ川の支流)や湖(後にイレンコの熱い湖、カラチャイ湖と呼ばれる)に放流されていた。やがて付近の住民に健康被害が生じるようになると、液体の高レベルの放射性廃棄物に関しては濃縮してタンクに貯蔵する方法に改められた。
放射性廃棄物のタンクは、絶えず生じる崩壊熱により高温となるため、冷却装置を稼働させ安全性を保つ必要があるが、1957年9月29日、肝心の冷却装置が故障。タンク内の温度は急上昇して爆発が生じ、大量の放射性物質が大気中に放出される事態となった(East Urals Radioactive Trace)。爆発規模はTNT火薬70t相当で、約1,000m上空まで舞い上がった放射性廃棄物は南西の風に乗り、北東方向に幅約9km、長さ105kmの帯状の地域を汚染、約1万人が避難した。避難した人々は1週間に0.025-0.5シーベルト、合計で平均0.52シーベルト、最高0.72シーベルトを被曝した。特に事故現場に近かった1,054人は骨髄に0.57シーベルトを被曝した。
放射性廃棄物貯蔵所でもあった湖(イレンコの熱い湖)は、放射性ストロンチウム90などで汚染されていたが、1967年春に干魃が発生した際に湖底が干上がって乾燥した。放射性物質を含む砂や泥が風にのって空気中に飛散したため、汚染地域が広がり周辺住民に放射性物質による被曝で、新たな健康被害を生むこととなった。
また1950年代に河川に投棄されていた放射性廃棄物は、対策が講じられず河床に沈殿されたままとなっており、年々下流域の住民の健康被害を深刻なものとしている。
事故は旧ソ連で起こったために極秘とされたが、1958年には「何かがあったらしい」程度の情報がアメリカ国内にも伝わることとなった。概要が明らかになったのは、1976年11月にソ連から亡命した科学者ジョレス・A・メドベージェフが英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に掲載した論文による(彼はその後『ウラルの核事故』(日本語訳有り)を出版する)。この告発をソ連は真っ向から否定した。原子力を推進する立場の人々からは、このような事故はあり得ず、これは単なる作り話であるとされていた。これは、当初流布された噂では、核爆発に達する臨界事故が起きたとされていたためである。