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2013年3月6日水曜日

週刊朝日「ナゾの死を遂げたもんじゅ調査担当者の死の直前の言葉」


☆ナゾの死を遂げたもんじゅ調査担当者 死の直前の言葉
(週刊朝日)

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130306-00000008-sasahi-soci

http://www.asyura2.com/13/genpatu30/msg/560.html

「社内結婚ですから、私も動燃のことはある程度、理解できます。でも、役職が上がるにつれて夫は家で仕事の話をあまりしなくなりました。仕事内容はおろか、出張先すら教えてくれない。亡くなる直前、珍しく会社の話をしたときは、『もんじゅの事故調査を命じられたが、もうイヤだ』と言っていた。残された資料を見て初めて、夫がさまざまなトラブル処理や“工作”にかかわっていたことがわかり、驚きました」



《おまけ》

☆もんじゅ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%85

1995年、二次冷却系で温度計の破損によって金属ナトリウムが640kg±42kg(推定)が漏洩し、火災となった。この事故は国際原子力事象評価尺度ではレベル1と判定されたものの、事故への対応の遅れや動力炉・核燃料開発事業団(当時)による事故隠しが問題となった。

この事故以来、もんじゅは運転休止状態が続き2010年まで運転を停止していた。

(略)

事故後の会見はもんじゅのプレスセンターで行い、動燃は事故当時撮影した1分少々のビデオを公開した。しかし数日後、これがカット編集されたビデオであることが発覚し、マスコミに指摘を受けた動燃は未公開部分を順次公開。当初のカット編集は、報道によるメディアスクラムや反原発団体による糾弾を懸念した職員の判断で行われたものとされるが、これがマスコミ等に「情報隠蔽ありき」と受け取られたことで結果的に裏目に出る形となり、より強い不信を煽る事となった。数日後、動燃は事故発生直後の現場のビデオがさらに存在すると発表。おびただしい量のナトリウムが施設内に飛散した映像が与えた衝撃は大きく、幾度にも渡り新聞やTVニュースで使用され、報道が過熱した。

その中で報道の矢面に立たされた西村成生・動燃総務部次長が死亡し、死因は自殺とされた。




☆夫の死の真相を明らかにしたい!「動燃職員強制死事件」控訴審(もんじゅ・西村裁判)第7回口頭弁論

http://janjan.voicejapan.org/living/0811/0811121347/1.php

1995年12月8日、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故が起きたとき、情報隠蔽問題で内部調査にあたっていた動燃職員の西村成生さんが、翌年1月12日に行われた記者会見の数時間後、ホテルの駐車場で遺体となって発見された。

(略)

※動燃職員強制死事件

1995年12月8日、動燃(現在の日本原子力開発機構)の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)で、原子炉の熱を取り出す2次冷却系配管から冷却材のナトリウムが漏れる事故が起こった。動燃は、事故直後の午前2時に事故現場を撮影したビデオ(「2時ビデオ」)を公表せず、それから14時間後に撮影したビデオを最初のビデオ(「4時ビデオ」)として公表した。「4時ビデオ」には編集が加えられており、事故の重大さを感じさせられる部分がカットされていた。

「2時ビデオ」は事故直後に本社に届けられ、本社職員も見ていたことがわかり、12月25日、大石理事長にそのことが報告された。大石理事長はただちに発表することを指示せず、翌年1月11日、動燃は科学技術庁(以下、科技庁)に相談した。12日、科技庁がそのことを記者に漏らし、急遽、動燃が記者会見を行った。理事長が「2時ビデオ」が本社にあることを最初に聞いたのは12月25日ではなく1月11日と答えたことから、西村さんはこの「嘘」に従い「1月10日」と言わざるを得なくなった。

西村さんの遺体がホテルの駐車場で発見されたのは、それから数時間後の13日未明だった。




☆元厚生次官宅・連続襲撃事件と動燃総務部次長の怪死

http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20081124koseijikan%20donen.htm

http://www.webcitation.org/5p09jJ2Ox
(キャプチャ)

この事件で、犠牲になられた方々は誠にお気の毒で、痛ましく存じますが、私は直ぐに、『週刊金曜日(2008.10.24号)』に掲載された高田欽一氏(ジャーナリスト)による「動燃総務部次長の怪死を取りまく謎(「夫は自殺じゃない」と動燃相手に遺族が訴訟)」との記事が頭の中に飛び込んできました。

高田欽一氏は、次のように記述しています。

1995年に高速増殖炉もんじゅが冷却用ナトリウム漏れという大事故を起こした。この騒動の最中、運営側の動燃の説明員が「自殺」。いきすぎた報道が死をもたらしたと非難され、以後、事故の報道は下火になっていった。

このできすぎた死は、本当に自殺だったのか──

この10数年前の悲惨な事件に対する私の記憶はすっかり薄れていましたが、高田氏は驚くべきことを報告されています。

なにしろ、動燃総務部次長(故・西村成生氏)の「自殺」と決め付けた警察の根拠を次々と覆されているのですから。

先ずは、「自殺」の状況を次のように書かれています。

西村とし子は当初は考える気力もなく、唯々呆然と悲しみに暮れるだけだったという。

彼女の夫だった故・西村成生(にしむらしげお)は、動力炉・核燃料開発事業団(以下、動燃。現・独立行政法人日本原子力研究開発機構)に総務部次長として勤務していた1996年1月13日未明、“宿泊するホテル八階の非常階段踊り場から飛び降り自殺し、頭から血を流し、うつ伏せになって倒れているのが見つかった”(新聞・TV報道)とされる。当時、高速増殖炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ事故を起こし、動燃は事故隠しをしたとして、世間やマスコミから厳しく非難されていた。それがこの自殺″をきっかけに、動燃への非難が急速に終息したという経緯があった。

(略)

又、『週刊金曜日』に戻りますと、御遺族の西村とし子氏が暴かれた「自殺説」の綻びを紹介されて行きます。

「何かがおかしい」

西村とし子が、そう思うようになったのは、成生の四九日が済み、ようやく落ち着いて夫の死に向き合えるようになってからだった。

〝おかしい″という感じは、夫の遺体に対面した時からあった。ホテルの八階から飛び降り自殺した、という発表だったから、遺体が酷い損傷を受けていることを覚悟していたのだが、ストレッチャー上の成生の躰には、擦過傷や打撲痕が目立つ程度で、たいした損傷はなかった。

「新聞には〝ホテルから飛び降り自殺して頭の骨を折っており……″と報道されたはずなのに……」

念のために遺体のレントゲン写真を取り寄せてみると、やはり頭蓋骨には骨折の形跡はなかった。

この「頭蓋骨の骨折」の有無の相違だけでも、「自殺説」を疑うには十分な根拠となりますが、更に、死亡時刻の整合性の疑問も提示されておられます。

また、聖路加病院の医師が作成したカルテには、深部体温が記載されていた。そこから逆算すると死亡推定時刻は1月12日22時頃(記者会見終了直後)から1月13日1時頃の間だった。ところが成生がホテルにチェックインした時刻は、『朝日新聞』は午前0時45分、『毎日』は午前1時と報道。動燃から送られたファクスを取りにホテルのフロントに現れた時刻が、『朝日』と『産経』が2時半、『読売』1時半となつていた。しかし一審の裁判においてもホテルで受信したファクスは出てきていない。

「本当に夫はホテルで飛び降り自殺したのだろうか?」

そうした疑念が沸き起こつてくるのを抑えることができなくなった。

となりますと「聖路加病院」による「死亡推定時刻」の「22時頃~1時頃の間」の直前の「午前0時45分」(朝日新聞)、或いは、「午前1時」(毎日新聞)に西村氏はチェックインしているのですから、「西村成生氏は、予めホテルを自殺の場と決めチェックインし、直ちに自殺した」となりご遺族としても納得できない筈です。

更に、その「死亡推定時刻」以降の「2時半」(朝日、産経)、或いは、「1時半」(読売)に「死んでいるはずの人間」が「ファクスを取りにホテルのフロントに現れた」と言うのですから、「ホテルにチェックインしたり、フロントにファックスを採りに来た人物」は、西村氏とは別人と考えるのが「穏当な見解」となるでしょう。

「しかし一審の裁判においてもホテルで受信したファクスは出てきていない」と言うのでは、「一審の裁判」はなんとしても、西村氏の死を「自殺」と決め付けたかったと考えるのもこれまた「穏当な見解」ではないでしょうか!?

しかし、これら私の「穏当な見解」とした根拠は「聖路加病院による死亡推定時刻」ですが、この時刻が誤りなら、別な見解となります。

即ち、「検死した監察医による死亡推定時刻」が「ファクスを取りにホテルのフロントに現れた」「2時半」、或いは、「1時半」以降であると言うのなら!

ところが次のような更に驚くべき事実を調べておられます。


西村とし子は、自殺とされた夫の死を自分で調べ直そうと決意した。

当初は五里霧中だったが、資料を集めて医学書を勉強し、専門的な用語も覚えた。

法医学者の先生方に資料を見てもらうと多くのことがわかってきた。

検死した監察医にも面会し、死亡推定時刻について尋ねると、深部体温を計らず発見時刻から死亡時刻を推定していたことが分かった。

さらにこの監察医は興味深いことを言っている。死体検案書の自殺欄にマルを打ち、〝転落したらしい″と記載してあるのを「なぜ〝らしい″なんですか?」と、とし子が尋ねると、「それは……。警察からの伝聞です。でも私は納得して9番の自殺にマルをした。そうでなければ、10番の他殺にマルをしています」。

この「監察医」の「発見時刻から死亡時刻を推定していた」のでは、先ほどの「聖路加病院による死亡推定時刻」を覆すことは不可能です。

更に、「死体検案書の自殺欄にマルを打ち、〝転落したらしい″」の「らしい」を「それは……。警察からの伝聞」でもって、“私は納得して9番の自殺にマルをした”
との談話を余りにも不自然です。

更に、次に記された当時の「中央署の担当者」の態度も不自然です。

西村とし子が、中央署の担当者に説明を求めると、応対した刑事課長は名刺を出すことも、名前を告げることさえ拒否したという。〝頭の骨を折っており″との報道が、警察関係者から取材したものなら、事実でない情報を警察はマスコミに流していたことになる。

更に、「西村成生が書いたとされる遺書」は「夫の筆跡ではありませんでした」と次のように書かれています。

西村成生が書いたとされる遺書には、マスコミに対する批判が書いてあった。だが、この遺書についても西村とし子は「遺書に日付と時間が書いてあったのですが、夫の筆跡ではありませんでした」という。


この遺書(文中にその一部の写真が掲載されています)に使われていた用紙は、「ホテルの便箋」ではなく紙面の下部に「どうねん」の文字が印刷された「動燃の用紙」のようです。

「動燃を慮った自殺」とはいえ「自殺」は私的行為です。

従って、ホテルで書かれた遺書なら「動燃の用紙」ではなく「ホテルの便箋」が使用されている筈です。

ですから、万が一にもこの「西村成生が書いたとされる遺書」をご本人が書かれたとしたら、「死亡推定時刻は1月12日22時頃(記者会見終了直後)から」ホテルにチェックインする前(「午前0時45分」(朝日新聞)、或いは、「午前1時」(毎日新聞))の、2~3時間の間に、(熟慮し、自殺を決意した後)ホテル以外の別の場所で、(1ページ目の写真を拡大してみた私の感じですが)文字を1文字訂正しただけの遺書を認め、自殺を決行する為のホテルに赴いた事となります。


しかし、写真の遺書(大石博理事長殿宛)の右上には、この遺書を書かれたと思われる日時が「H8.1.13 03:10(土)」と書かれているのが読み取れます。

(この時刻は「ファクスを取りにホテルのフロントに現れた」「2時半」以降となります)

しかし、「聖路加病院」による「死亡推定時刻」の「22時頃~1時頃の間」なのです。

この遺書から、私は作為性を感じざるをえません。


やきとりのいない八月

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