このブログを検索

2015年3月3日火曜日

【写真】憲法9条まさかのときは…逃げるが勝ちゲーム

お値段3600円
https://twitter.com/another_oosaka/status/570880288298962944



《政治的台風から逃げなかった人の運命》

☆小林多喜二

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%A4%9A%E5%96%9C%E4%BA%8C#.E6.9C.80.E6.9C.9F

それによると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に、小林を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死亡が確認・記録された。

(略)

なお、小林死亡時の責任者は特高警察部長だった安倍源基で、その部下であった中川、特高課長の毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部山県為三(戦後、スエヒロを経営)の3人が直接手を下している。

(略)

警察当局は翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された小林の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。



《政治的台風から逃げた人の運命》

☆八島太郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E

友人であった作家小林多喜二が特高の拷問で死亡した際には、多喜二の死に顔をスケッチする。

その後、1939年、芸術を学ぶためニューヨークに渡る。

1943年、「The new sun(新しき太陽)」「ブラウン文庫 4827」を刊行したことにより、アメリカ合衆国で「野蛮なサルではない日本人もいる」という記事が載る。

第二次世界大戦中は、戦時情報局(OWI)で働き、対日宣伝活動に加わる。

沖縄侵攻作戦では、一人でも多くの日本人を救うため、命の重要さを説く詩を書き、戦略爆撃機から投下する沖縄の日本兵へ投降を呼びかけるビラの製作に携わった。

やきとりのいない八月

飛び地A

ブログ アーカイブ

The Daily Star(レバノン)

Rudaw(イラク)