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2014年2月6日木曜日

〔歴史メモ〕漂着死体に偽装書類を持たせてドイツを欺いた「ミンスミート作戦」

☆内閣府職員の死因は低体温症か (日本テレビ)

http://www.news24.jp/articles/2014/02/03/07245033.html

先月、福岡県北九州市の沖合で遺体で発見された内閣府の男性職員について、死因は低体温症とみられることがわかった。



☆内閣府職員死亡 低体温症か溺死か (NHK)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140203/k10014988431000.html

https://web.archive.org/web/20140206025224/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140203/k10014988431000.html

先月、北九州市の沖合で漂流していたゴムボートが転覆し、海底から遺体で見つかった内閣府の男性職員について、死因は低体温症か溺れたことが原因とみられることが分かりました。



☆ミンスミート作戦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BD%9C%E6%88%A6

ミンスミート作戦(ミンスミートさくせん、英: Operation Mincemeat)は、第二次世界大戦中の1943年にイギリス軍が実行し、非常な成功を収めた諜報作戦(欺瞞作戦)であり、ナチス・ドイツの上層部に連合国軍はシチリア(実際はこれが真の目標であった)ではなく、ギリシャとサルデーニャに侵攻を計画していると信じ込ませることに成功した。

これはドイツ側に、彼らが全くの「偶然」から、連合国軍側の戦争計画に関する「極秘書類」を入手したと信じ込ませることで成し遂げられた。実は極秘書類はこの作戦のために用意された死体に固定されて、スペインの沿岸に漂着するように故意に投棄されたものであった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BD%9C%E6%88%A6#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9.E6.B5.B7.E5.85.B5.E9.9A.8A.E3.80.81.E3.82.A6.E3.82.A3.E3.83.AA.E3.82.A2.E3.83.A0.E3.83.BB.E3.83.9E.E3.83.BC.E3.83.81.E3.83.B3.E5.B0.91.E4.BD.90

著名な病理学者であるサー・バーナード・スピルズベリー(Sir Bernard Spilsbury)の援助の下に、モンタギューとそのチームは、彼らが必要としている死体を「男性で海中で低体温症に陥り溺死し、数日後に沿岸に流れ着いた」ように見えるものと決定した。

しかし、このように都合のよい死体を見つけ出すことはほとんど不可能な様に見えた。目立たないように調査してもうわさ話を引き起こすであろうし、死者の親族に何のために遺体が必要であるかを説明することは不可能であった。

しかし密かなプレッシャーの下で、セント・パンクラス(St. Pancras District in London)の検視官であったベントリー・パーチェス(Bentley Purchase)が、真の身上は決して明かさないという条件の下で、34歳の男性の死体を入手することに成功した。

この男は、殺鼠剤を嚥下した結果、化学物質によって引き起こされた肺炎が原因で死亡した。そのため、肺の中には滲出した体液が溜まり、海で死亡した状態と整合が取れていた。

サー・バーナードと同程度に有能な病理学者はごまかせないであろうが、バーナードはスペインにはそのような人物はいないと保証した。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BD%9C%E6%88%A6#.E5.AE.9F.E8.A1.8C

イギリス海兵隊の戦闘服を着用したマーチン少佐は鋼鉄製のキャニスター(円筒ケース)に収められた。キャニスターにはドライアイスが詰められ密閉された。ドライアイスが融けてしまうと、酸素は追い出されてキャニスターは二酸化炭素で満たされ、死体は冷凍されることなく保存されることになる。

チャムリーとモンタギューはそれをスコットランドのホーリー・ロッホに輸送し、そこでイギリス軍の潜水艦セラフ(HMS Seraph)に積み込まれた。セラフの艦長ノーマン・ジュエル中尉 (Lt. Norman Jewell) と乗員は以前に特殊作戦に従事した経験を持っていた。ジュエルは部下にこのキャニスターには極秘の気象観測機器が収められており、スペインの近くに配備される予定だと話していた。

1943年4月19日、セラフは出港し、4月30日にスペインの海岸の沖数マイル、ウエルバという町の近くに到着した。イギリス軍は、ウエルバにスペインの当局と親しいアプヴェーアのエージェントが居ることを知っていた。

4月30日午前4時30分、セラフは浮上した。ジュエル中尉はキャニスターをデッキに運ばせ、士官以外の乗員を船内に戻らせ、士官たちに秘密作戦について手短に説明した。彼らは、キャニスターを開け、マーチン少佐に救命胴衣を着け、書類の入ったブリーフケースを取り付けた。葬儀は命令の中では特に指示されていなかったが、ジュエルは賛美歌39番を読み上げ、海流が沿岸に運んでくれる海域で、死体は丁寧に海中に入れられた。ジュエルは後で委員会に「ミンスミートは完了した」とのメッセージを送った。

死体は午前9時30分頃、地元の漁師ホセ・アントニオ・レイ・マリアによって発見された。

書類は完全に丸呑みにされた。モンタギューと彼のチームがマーチンの身上を創り上げるのに惜しみなく配った配慮は報われていたのである。かなり後で彼らは知ることになるのであるが、ドイツ人達は劇場のチケットの半券の1943年4月22日という日付に着目し、それが本物であることを確認していたのである。

その結果、ヒトラーは偽装文書の真実性を確信し、シチリアが最もあり得る侵攻ポイントであるというムッソリーニに同意せず、シチリア島へのいかなる攻撃も陽動作戦と見なすことを主張することになったのである。

ヒトラーはサルデーニャとコルシカ島の軍備増強を命令し、エルヴィン・ロンメル元帥を、軍集団を創設するためにアテネに派遣した。反面、シチリア防衛のための割り当てられていた警備艇と掃海艇および機雷敷設艇は分散配備されることになった。

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