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2014年2月6日木曜日

〔歴史メモ〕ゾルゲ諜報団が日本の機密情報を国外に持ちだしたルートと手段

☆マックス・クラウゼン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B3#.E6.97.A5.E6.9C.AC


1936年2月、別のドイツ人工作員の家でウラジオストクとの通信を開始。通信は安全のため時々場所を変えて行われ、茅ヶ崎の農家からも発信した。

また妻アンナはクーリエ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8
として上海と日本を18回も行き来して、フィルムや日本・ドイツ当局の機密書類を運んだ。

クラウゼンは工具製作所を経営するドイツ人の元で働いていたが、やがてドイツからのオートバイ輸入業を始め、独自にコピー機製作所「クラウゼン商会」を経営した。その仕事で日本の軍人や実業家、大学教授に知遇を得た。その関係のおかげで、アンナは日本軍将校のはからいで日本の軍用機で上海に赴いたことさえあった。

1938年からは通信を暗号化し、最後まで日本側は暗号を解読できなかった。

満州で日本とソ連による国境紛争が起きた時、クラウゼンは即座に日本軍の動きを打電した。東京にはドイツの情報部員もおりゾルゲは監視されていたが、馬脚を現すことはなかった。

しかし暗号化作業や偽装工作は心身に重圧を与えるものであり、1940年にクラウゼンは心臓発作で倒れ、ドイツ人医師の治療を受けて箱根で静養している。


やがて第二次世界大戦の緊迫する情勢の中、上海との連絡が難しくなり、東京のソ連大使館にいる担当領事との接触で連絡を取るようになった。これは危険を伴うので今まで避けられていたのだが、なおも暴露されることはなかった。

1941年3月5日、クラウゼンは「ドイツ軍50個師団がソ連侵攻のため準備されている」という情報を送った。5月には「ドイツ軍の規模は150個師団、期日は6月15日(実際は22日)」という詳細な情報を送ったが、モスクワはこの情報を疑った。しかし現実に独ソ戦が始まり、情報の正確さが証明された。さらに9月、クラウゼンは日本軍がソ連極東に対する攻撃に乗り出すことはないという情報を送った。これにより極東ソ連軍がヨーロッパに送られ、ドイツ軍の進撃を止めた。

 ゾルゲのグループは1936年から5年間で805の通信を行い、うち363が司令部や大臣に届けられる重要情報だったといわれる。日本側が傍受していたのはそのうち4分の1に過ぎなかったとクラウゼンは回顧している。

ゾルゲのグループが逮捕されたのは、彼らに協力していた日本人の共産主義者から足がついたためだった。



☆ブランコ・ド・ヴーケリッチ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A7.E3.81.AE.E6.B4.BB.E5.8B.95

ヴーケリッチの主な諜報活動は、記者としての情報収集とその分析、資料の写真撮影・現像・複写(自宅内に暗室があった)、さらに無線技術メンバーによる無線発信の援助であった(自宅は無線発信所の一つとなっていた)。

資料写真はマイクロフィルムに焼き、主にゾルゲを通してソ連側のクーリエ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8
に手渡された。

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