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2013年2月12日火曜日

〔メモ〕生前に退位したローマ教皇ケレスティヌス5世はのちに事実上の獄死を遂げた


[タグ]ローマ教皇。ローマ法王。Papa Caelestinus V。ピエトロ・ダ・モローネ。Pietro da Morone。


☆ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B95%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

ケレスティヌス自身、自分の意思で教皇に立候補したのでもないのにもかかわらず、政争の具として利用されたのであったから、本人にとっては一種の災難であった。ケレスティヌス5世は、在位数か月にして自ら「教皇の器にあらず」と述べて退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のカエターニ枢機卿に相談した。

ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実は、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせ、毎夜ささやいて教皇を不眠症と神経衰弱に追い込んだ張本人はカエターニ自身であったといわれている。インドロ・モンタネッリ『ルネサンスの歴史』でも、すべてカエターニ枢機卿の仕組んだことだとして一連のできごとを記述している。

カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ケレスティヌスは自ら「教皇に選ばれた者は、選出を拒否する権利をもつ」という法令を出し、結局、半年たらずで教皇を退位した。ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した。


ケレスティヌス5世の退位後、カエターニ枢機卿はボニファティウス8世として即位した。

これに対し、イタリア貴族のコロンナ家は不満をいだいた。当初は新教皇の傲慢さが原因だったともいわれているが、ボニファティウス8世の対シチリア政策にも反対しており、ケレスティヌス退位の経緯に注目して退任の合法性に疑問を呈した。もしも、この退任が教会法に違背しているならば、新教皇ボニファティウス就任の正統性が揺らぐこととなるからである。

野心家のボニファティウス8世は、これに対して危険を察知し、みずからの保身のため前教皇ケレスティヌス5世を捕縛し、ローマの南東およそ36キロメートル、フェレンティーノに近いフモーネ城(ラツィオ州フロジノーネ県)の牢獄に幽閉した。

ケレスティヌス5世は フモーネの獄中で感染症に罹患し、幽閉後10ヶ月の間、膿瘍の痛みに苦しんだのち牢獄内で死去した。

86歳前後であり、当時としてはたいへんな高齢であった。

晩年は苛酷な運命に翻弄されたケレスティヌス5世であったが、のちに列聖された。



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