914 名前:名無しに影響はない(家)[sage]
投稿日:2012/06/10(日) 23:48:53.21 ID:HupDjwus [3/3]
(略)
ところで、明日から二週間、世田谷の砧公園に隣接する焼却場で宮城県の瓦礫を焼却するそうだが、そこから二キロくらい先の桜新町には、小沢一郎の邸宅がある。
なんか嫌がらせ?ww
小沢さん、心臓をいたわってください。
▼ 源頼朝が(事実上の目の上のタンコブ的な政敵であった)後白河法皇の御所として建築した法住寺殿は防寒設備が不充分であり、それが(当時としては高齢の)後白河法皇の発病と病死を招いたのではないかとの憶測もある。 ▼
☆後白河天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
建久2年(1191年)、幕府の支援により戦乱と地震で荒廃していた法住寺殿の再建工事が始まった(『吾妻鏡』2月21日条)。法住寺殿は後白河院にとって、滋子と日々を過ごした懐かしい御所であり、再建は悲願だったと思われる。12月16日、後白河院は完成した御所に移り(『玉葉』同日条)、造営を担当した中原親能・大江広元に剣を下賜(『吾妻鏡』12月24日条)、丹後局・吉田経房は頼朝に「法住寺殿の修理美を尽さるる事」を感謝する書状を送った(『吾妻鏡』12月29日条)。
ところが法住寺殿に戻ってすぐに、後白河院は「御不食」「御増気あり。又御脚腫れ給ふ」と体調を崩す(『玉葉』12月25日条)。その後、長講堂供養のため六条殿に御幸するなど快方に向かうかに見えたが(『玉葉』12月28日条)、翌閏12月に再び発症して病の床についた(『玉葉』閏12月16日条)。平癒を祈って非常大赦が出され(『玉葉』閏12月17日条)、崇徳上皇の廟・藤原頼長の墓への奉幣、安徳天皇の御堂建立なども行われるが(『玉葉』閏12月29日条)、容態は日増しに重くなっていった。