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2012年3月4日日曜日

〔沖縄史メモ〕終戦直後に実在した「八重山共和国(八重山自治会)」


☆八重山共和国 (やえやまきょうわこく)

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-43177-storytopic-121.html

1945年12月17日、戦後の八重山で誕生した一種の人民政府。行政機能のマヒに加えてマラリアの流行、旧軍人の狼藉から住民を守るため青年有志が決起した。わずか1週間で使命を終えたが、人民政治を実現した自治会の出現は画期的。



☆八重山自治会

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%BC%9A

八重山自治会(やえやまじちかい)とは、終戦直後の1945年12月に石垣島で設立された八重山諸島住民の自治組織のことである。なお、後に「八重山共和国」という俗称が現れたが正式名称ではない。

1945年、八重山諸島を管轄する八重山支庁は機能を停止し無政府状態に陥ったので、八重山諸島の住民は「自警団」を創設する。その後、同年11月に「自治会結成準備会」が開催され、1ヵ月後の12月15日、石垣町の映画館「八重山館」において自治組織「八重山自治会」が設立され、宮良長詳(医師)が会長に吉野高善(医師)と宮城信範(元校長)が副会長に選出された。当面の目標として「人心の安定」「治安の確保」「引揚者の帰還促進」「マラリア患者対策」「闇物資への対策」が決められた。

1週間後の12月23日、米軍のジョン・デイル・プライス海軍少将が、チェイス海軍少佐を八重山に派遣して石垣島で米国海軍軍政府の樹立を宣言し、軍政府の下で「八重山支庁」が復活することになった。初代の支庁長には、八重山自治会長の宮良長詳が任命された。1946年1月24日、行政機構の復活で当初の目的が達せられたので八重山自治会は解散した。

当時の八重山自治会は「八重山共和国」と名乗ったことはなく、独立主権国家と宣言したわけでもない。また、俗に「蝦夷共和国」と称される箱館政権(総裁:榎本武揚)と比較しても、政府機構に準じた組織を持っていたわけでもない。しかし短期間にせよ日本国や米軍の実効支配が及ばない地にできた自治組織であったことから、一種の比喩的な表現として「八重山共和国」の呼称が生まれた。




http://jaima.net/modules/readings/index.php?content_id=119

八重山自治会

戦時下における食料難は、マラリアの大流行と重なりあって住民を「死」と「飢え」の恐怖のどん底に陥れた。

そのような混乱の中で行政機関の中心である沖縄県八重山支庁の行政機能は完全に喪失していた。

その混乱の中から自治政府をつくろうという気運が盛り上がってきた。

準備会に参加したのは、宮良長義、糸洲長良、宮良高司、大浜用立、宮良孫良、安室孫利といった戦前教員思想事件関係者や農民、教師グループ、宮良長義の感化を受けた豊川善亮、屋嘉部長佐、浦添為貴、亀谷長行、崎山里秀、宮城光男、本盛茂、内原英昇など青年層であった。

住民に人気のあった医師の宮良長詳を会長に推すことを決め、1945年12月15日に八重山館で1000人の郡民を集めた大会が開かれ、会長に宮良長詳、副会長に宮城信範・吉野高善を選出し、ここに日本では例をみない自治会という名の人民政府が誕生。

「八重山共和国」と呼ぶ人もいる。

ところがそれから8日後の12月23日、米国は「米国海軍政府布告第一号・A」を発令し、八重山に軍政府を樹立したために、自治政府(八重山共和国)は8日間で活動を停止した。

自治会は翌年1月八重山支庁が発足し、行政機能が円滑に動き出したとして1月23日に解散した。

誕生から1週間でその使命を終えたとはいえ、「人民の人民による人民のための政治」を実現した八重山自治会の名は日本近代史に特記すべきものである。




http://chinachips.fc2web.com/repo5/051062.html

しかし沖縄本島から遠く離れた八重山では、米軍の進駐が若干遅れたのです。

終戦直後、島田叡県知事が死亡した沖縄県庁も、八重山を管轄する八重山支庁も機能を停止し、いわば一種の無政府状態に陥った八重山は、他の島とも連絡がとれない孤立無援の状況下で、治安の悪化、軍の徴発による食糧不足=住民は、本来食用ではない蘇鉄をも食した)住民の栄養失調によるマラリアの蔓延、さらには、終戦時約9千人居た現満兵=現地満期兵)による婦女子への暴行・農作物泥棒などに悩まされたのです。

こうした状況下で、混乱した秩序を回復するべく、地元青年団による自警団が組織されたのです。昭和20年9月(あるいは10月ともいう)、八重山の青年達の指導者的存在だった当時23歳の宮城光雄(登野城地区青年団長)と同輩の豊川善亮(同地区青年副団長)の二人は、自警団を組織するに当たって一つの大志を抱いていました。それは、

「八重山に独立国を創る」

というものだったのです。

宮城と豊川はその大志を胸に、大川地区青年団長の本盛茂[もともりしげる]、石垣地区青年団長の内原英昇を誘って自警団を組織、この瞬間、共和国は胎動を始めたのです。

とはいっても、彼らはまだ二十代前半の若者。社会的地位が高い訳でもなく、住民を纏[まと]め上げるだけの組織力もなかったのです。そんな彼らの前に、一人の曰く付きの人物が現れたのです。彼の名は宮良長義[みやらちょうぎ]。

昭和7(1932)年、日本教育史上最大の逮捕者を出した「八重山教員思想事件」に連座して、特高=特別高等警察)に検挙、検束拘留され、想像を絶する拷問の末、教員を免職。

その後、労働組合運動・農民運動を始めとする政治運動に参加し、更に思想転向して教員に復職、皇民化教育を実践したという経歴を持つ人物です。

その彼=終戦時、黒島で学校長を勤めていた彼が、薬品を分けてもらおうと、たまたま八重山に来た時、その政治力に目を付けた青年団が彼に接触、ともに共和国実現に向けて奔走する事となったのです。

宮良長義は、同年10月から11月にかけて、八重山の指導者層=浦崎県保・潮平寛保・宮城信範・宮良永益・翁長信全・吉野高善)・住民の圧倒的な支持を得ていた医師の宮良長詳・各地区代表者・婦人会・老人層・農村指導者等に次々と接触し、

自治会構想=宮城・豊川とは異なり、宮良はあくまでも自治会=自治政府の組織と考えていた)について説明し、充分な根回しの末、支持を取り付けていき11月には「自治政府結成準備会」が発足。そしてこの時、施政方針についても討議されたのです。


「八重山共和国の施政方針」

・食料の安定供給
・マラリア対策
・治安の回復
・財源確保の為の事業構想
・組織の構成
・人事


12月に入ると、遂に八重山共和国誕生に向けた陣痛が始まりました。

宮良長義等の積極的な情報宣伝と、組織化活動によって、住民の間に自治会樹立構想が広く行き渡り、機運も昂揚、詰めを残すばかりとなったのです。

12月9日(あるいは10日ともいう)、宮城等の青年グループは独自に会合を開き、自治会長に誰を据えるのかを討議。住民の圧倒的な支持を得ている宮良長詳を自治会長に推挙する事に決し、その旨を宮城・宮良長義が宮良長詳に打診、彼の就任受諾を引き出したのです。

その後、13日に自治副会長就任を受諾した吉野高善邸に於いて、最終準備会を開き、人事の決定・郡民大会(記念式典)の進行及び、機構・規約・宣言決議文等の重要案件についての最終確認を行い、昭和20年12月15日、共和国の出産を迎えたのです。

昭和20年12月15日午後8時、場所は「八重山館=映画館、現在は万世館)。住民が館外にまで溢れるほど参集する中、郡民大会は始まり、自治会長=共和国大統領)に宮良長詳を選出、ここに、後に八重山共和国と呼ばれる事となった、八重山住民の八重山住民による八重山住民の為の自治会=自治政府が樹立されたのです。


その後、自治会の当面目標=施政方針)として、人心安定・治安確保・引揚者の帰還促進・マラリア患者対策・闇物資対策等が打ち出され、午後11時、大会は終了したのです。

このように住民主体で樹立された共和国でしたが、その生命は、あまりにもはかないものでした。何故なら、誕生から8日で夭逝してしまったのですから。

昭和20年11月初旬、「米国海軍軍政府の統治権が宮古・八重山諸島にも及ぶ」という確約を得た南部琉球軍政長官ジョン・デイル・プライス海軍少将がチェイス海軍少佐を八重山に派遣。

12月23日午前9時、「米国海軍軍政府布告第1号-A」が発令されると共に、八重山支庁舎に於いて、宮良長詳自治会長・翁長良整[おながりょうせい]支庁長代理等と会見したチェイス少佐は、米国海軍軍政府の樹立施行を宣言、ここに共和国は、樹立後8日にして消滅したのです。しかし、共和国はその後も形を変えて暫時命脈を保ちました。

共和国消滅から5日後の12月28日、米国海軍軍政府は、自治会長だった宮良長詳を支庁長に、仮自治政府としての新生八重山支庁(以下、単に支庁と略)を発足させました。

たしかに共和国自体は消滅してしまいました。しかし支庁に、共和国に関わった人達が数多く参加した事も確かで、共和国は形を変えて支庁に継承されたともいえます。そしてそれを象徴するかのように、昭和21(1946)年1月24日宮良支庁長は、支庁会議室に於いて共和国の解散を宣言しました。

その後、宮良支庁長は、共和国を体した施策を推進しましたが、反対派である共和会と、それを支援する軍政府の圧力により、昭和21年10月20日、支庁長職を辞任、支庁長と共に歩んできた支庁職員も30数名が辞職、後任の吉野高善・新支庁長を中心とした反対勢力、共和会による新体制が発足し、ここに共和国の命脈は完全に終止符を打たれたのです。



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