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2012年3月27日火曜日

〔大阪市議会〕自民党に続き民主党も「原発住民投票」に賛成へ


「社民党と共産党」を名指しで繰り返し批判することによって、「原発もイヤだが、社民共産もイヤだ」という層の取り込みを目指した今井一氏の戦略が実を結んだことになる。

             ↓


北野たえこ(大阪市議。自民党大阪府連)
https://twitter.com/#!/taecom123/status/184281571375849472
明日は本会議。原発再稼動の是非をめぐる住民投票条例案に対し、自民党大阪市会議員団は一部修正をかけて賛成の方針を固めました。修正趣旨説明は会派代表の加藤仁子(東住吉区選出)議員です。


薮井寿一(大阪市港区)
https://twitter.com/#!/Haven_Harmonie/status/184407736434434048
原発市民投票、自民会派が修正案を提出との事。民主会派はこれに賛成の可能性が高く、残る公明会派が、成立の可否を握る事になった模様。今日委員会の後、本会議で採決。成立を強く願う。


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《原発と憲法9条の「抱き合わせダブル国民投票」が実施される流れ》

原発国民投票と憲法9条国民投票の「抱き合わせダブル国民投票」を同日投票するというのであれば、民主党と自民党の二大政党サイドも妥協するし、原発国民投票事務局や今井一・事務局長
https://twitter.com/#!/warszawaexpress
も快諾するであろう。

流れは原発国民投票と憲法9条国民投票の「抱き合わせダブル国民投票」の同日投票へと急速に傾きつつあると思う。


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《報道2001世論調査で「憲法9条を問う国民投票をやれ」52.8%》

(3月22日調査・3月25日放送/フジテレビ)
首都圏の成人男女500人を対象に電話調査

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/shin2001/chousa/chousa.html

http://www.webcitation.org/66SeVtVtL

【問5】
「大阪維新の会」は、次期衆院選の政権公約「維新八策」のたたき台に、憲法9条についての国民投票の実施を盛り込みました。あなたはどう考えますか。

実施すべき  52.8%
実施すべきではない  35.6%


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《普通選挙法と治安維持法の「抱き合わせ」成立》

☆加藤高明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E

1924年(大正13年)6月11日、憲政会が比較第一党となり加藤は内閣総理大臣となった。加藤は東京帝国大学出身初の首相である。

選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。この法規は言論弾圧の法規であり、特に戦時中に乱用されたとして治安維持法反対派からは強く批判されている。

(略)

また、宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。

こうした革新的な政治と、保守的な政治を使い分けた加藤の治世を飴と鞭と称することもある。



88 名前:名無しさん
投稿日:2012/01/31(火) 11:42:31
原発国民投票を呼びかける運動。
あれは脱原発派を社民共産から1人でも多く引き剥がして、民主党小沢派とみんなの党が山分けするための運動(策略)
と考えてよろしいか?



06 :名無し三等兵[sage]:2010/10/17(日) 12:46:31
帝政時代のズバートフの警察社会主義(警察のスパイを穏健派の指導者に仕立てて社会主義運動をコントロール)も
過激派についていけない普通の労働者を大衆運動に引き込んで逆に社会主義運動を盛り上げてしまったらしいからね。



▼世界の労働運動の歴史~ズバトフ労働組合(ロシア)

http://www.mcg-j.org/mcgtext/sekaino/sekaino2.htm

 このような“違法”な労働組合の活動、ストライキに対してツアーリ専制政府のとった第一の対応が警察、軍隊等の暴力装置による強権的な弾圧であったことは言うまでもない。

 だが頑迷なツアーリ反動政権と言えども、単なるムチだけでは労働者を抑え込むことが出来ないことを知らされたのだ。実際、失業や賃金の切り下げが餓死状態に直結する当時のロシア労働者は、闘うことなくして生きる途がなかったのである。

 専制政府が打った手は上からの労働者の組織化である。それまで社会主義政党は勿論のこと、ストライキや労働組合は非合法であった。非合法であろうとも、労働組合は社民党の協力の下、強固な闘いを展開していた。ツアーリ官憲はこの急進的、革命的組合活動を抑え込むためにまず組合指導部から急進派、社会主義派を追放しようとしたのである。元々非合法の組合に“追放令”を出した所で何の意味もない。戦闘的指導部と労働者大衆を切り離し、大衆に一定の幻想を与え、“穏健な”活動に留めるには官製の労働組合が不可欠である。権力の側が労働者を囲い込むために“労働組合”を組織するのである。こうした組合はその後ズバトフ型労働組合と呼ばれるようになったが、その由来は、ロシアの憲兵大佐スバトフが創始者であったからである。1905年の革命の発端となった血の日曜日事件の“主役”坊主ガボンが組織したペテルブルク工場労働者協会もこうした組織の一つであった。




☆ゲオルギー・ガポン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%B3

ガポン神父はサンクトペテルブルクの労働者を集め、労働者組織を作り上げた。組織の目的は産業革命が始まりつつあったロシアの労働者の権利を保護し、モラルと信心を高める事にあった。組織は規模を急拡大させ、12の支部に8,000名の構成員を数るまでになった。

( これらのガポン神父の活動にはロシアの秘密警察オフラーナの資金が用いられていたと言われている。)




☆Sergei Vasilyevich Zubatov
(官製労働組合の組織化による帝政ロシア労働者の懐柔・囲い込みに邁進していた保安部長官セルゲイ・ズバートフ)

http://en.wikipedia.org/wiki/Sergei_Vasilyevich_Zubatov

Zubatov was a member of the revolutionary movement in his teens, but
soon he became dissatisfied with revolutionaries and was easily
persuaded to become an informant of the Moscow security Okhrana
bureau. Unmasked as an informant in 1888, he started his official
service in the agency in 1889 and gradually rose to head the Moscow
office in 1896. He systematized security policing in Russia, using the
typical methods then prevalent in Europe of plainclothes police
detectives known as filyory (филёры) whose actions he coordinated with
the centerpiece of his system, undercover informants (секретные
сотрудники). He was a master at interrogating radical activists and
occasionally winning them over to his side, arguing that the Imperial
Russian state could do more for the poor than could terrorists and
agitators who would only bring down upon the people the heavy hand of
reaction.

Despite his deeply held monarchist convictions, Zubatov earnestly
believed that repression alone could not crush the revolutionary
movement. He therefore also promoted the organization of
pro-government trade unions to channel protest away from agitation
between 1901 and 1903, a practice named police socialism or lambasted
by revolutionary activists as Zubatovshchina (зуба́товщина) after him,
which gained support from Moscow Governor General, Grand Duke Sergei
Alexandrovich. The first such organisation was set up under the name
of The community of mutual help of the workers in mechanized industry
(Общество взаимного вспомоществования рабочих в механическом
производстве); others were formed in Odessa, Kiev and Minsk. However,
he was unable to persuade the government to enact any actual
improvement in labour legislation and the entrepreneurs were not happy
about the trade unions either. After a series of strikes, in August
1903 Zubatov was expelled personally from his position as director of
the Special Section by Interior Minister Vyacheslav von Plehve, and
the state-sponsored trade unions were disbanded. After the
assassination of Plehve in July 1904, he refused to return to the
service, partly in order to protect the life of his son, whom he
feared revolutionary activists might threaten. He retired to private
life, living off his state pension.

He fatally shot himself during the February Revolution after hearing
the news of the Tsar's abdication.


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