(共同通信)
http://www.47news.jp/CN/201501/CN2015010901002042.html
ただ、深刻な人手不足を解消するため、職員の待遇を改善する分は確保して1人当たり平均で賃金を月額1万2千円程度上げる。
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そうらん(介護業界の人)
https://twitter.com/asabu44/status/553666691385663488
職員の給与の増加分を確保する処遇改善加算は上げるけど、この加算は介護報酬の総額から算定するので介護報酬が下がると給与は上がらない。それに上乗せの処遇改善加算をとる条件をクリアしないと上がらない。給与上がっても次の消費税増税や社会保険料でトホホなのです。
そうらん(介護業界の人)
https://twitter.com/asabu44/status/553679957402996736
制度が複雑なせいもあるけど、通信社や新聞社の担当記者ならわかるはず。生活面でなく、政治記事だからかな。現場は収入が減ると処遇改善加算も減るのでやきもきするんですけどね。利用者が入院したり亡くなると空いている間は収入ないし。
《「机上の兵法」で大敗したケース》
☆趙括
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E6%8B%AC
幼少時より兵学に通じており、時には名将といわれた父を論破したこともあった趙括だが、父の趙奢からは決して評価されなかった。「あれの兵法は口先だけのものだ。戦争とは生死のかかったものであるのに無造作に論じている。任用されずに済めばよいが、もし趙括を将軍にすれば必ず負けるだろう」と妻の問いに趙奢は返答したという。だが、趙括自身は名将の息子という名声のもとに兵法の大家を自認し、軍事にかけては自分の右に出る者はいない、と自惚れていた。
(略)
長平の戦いにおいて、当初の趙軍は名将・廉頗の指揮でよく防戦していた。これに対し、戦局打開のために遠征軍の秦では宰相・范雎が一計を案じ「秦軍は老人の廉頗よりも、兵法の名家たる趙括が指揮を執ることを恐れている」という流言を広めると、趙の孝成王はこれを信じて廉頗から趙括へ総大将を交代させてしまう。
これを知った趙の重臣の藺相如は死期の迫った病の身を厭わず参内し「趙括は兵法書を丸暗記しているだけの未熟者、戦場での臨機応変の重要さを理解していません」と諌めたばかりか、趙括の母までもが亡夫の遺言をもとに、趙括の将軍起用を取り下げるように王へ直訴したが容れられなかった。代わりにどんな結果でも一族などに罪を及ばせぬように、との趙括の母の願いだけは、孝成王も認めている。
前線に到着した趙括は廉頗の持久戦法から一転、秦軍に対し攻勢を仕掛けたが、歴戦の勇将である白起将軍の囮作戦にかかり、軍を分断され大敗を喫する。さらに秦軍の包囲によって糧道を断たれた趙軍40万は飢えに瀕し、味方を殺しあって人肉を奪い合う窮状に陥った。
趙括は僅かに残った健常な兵を率いて秦軍への突撃を敢行したが、趙括はあえなく矢で射殺された。
統率を失った趙軍は降伏し捕虜となったが、40万人もの投降兵を養うだけの食料は秦軍にも無かった事で、白起の判断によって僅かの少年兵を残し投降の趙兵すべてが生き埋めにされた。このため趙は国力を大幅に低下させ、その滅亡を早めることになる。
☆馬謖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%AC%96
並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。
ただ劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら馬謖の才能を愛する諸葛亮は、劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った。
(略)
建興6年(228年)春3月、諸葛亮は第一次北伐に際し、彼に戦略上の要所である街亭(甘粛省安定県)の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮が道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き山頂に陣を敷いてしまった。このため副将の王平がこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。
その結果、魏の張コウらに水路を断たれ山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫した。