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2014年12月14日日曜日

日テレ動画「越谷と草加でニセ1万円札が見つかった」 

☆本物より小さい…越谷と草加で偽1万円札 (日本テレビ)

http://www.news24.jp/articles/2014/12/14/07265145.html

偽の1万円札には透かしがない上、色が赤茶けていて、大きさも本物よりわずかに小さいという。



《おまけ》

☆岩畔豪雄

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84#.E7.99.BB.E6.88.B8.E7.A0.94.E7.A9.B6.E6.89.80

偽札製造は中国の経済攪乱を目的とする、それまでとは比べ物にならない精巧な法幣(中国紙幣)偽造工作であったが、岩畔はこの計画を発頭。秘匿名を「杉工作」と称し、山本憲蔵主計少佐を登戸研究所に配属し工作に専任させ、実施面の責任者に阪田誠盛を起用し上海に杉機関(阪田機関)を設置した。

製造については、凸版印刷と巴川製紙の社長を兼ねていた井上源之丞の全面協力があったという。山本少佐は「岩畔大佐は、その風貌のしめすごとく、豪気果断であるばかりでなく、俊敏しかも柔軟性のある、いわば軍人ばなれのした逸材として、すでにその上下をとわず衆望を集めていた」と評している。

偽札計画は推進され、中国の秘密結社・青幇との密接な協力関係をとりつけるなどで、偽札は実際に印刷し大量に投入もされた。

約45億元を製造し、軍事物資の調達などで約30億元が使用されたといわれる。当時の1元はほぼ1円で、1945年の日本の国家予算が約200億であったことから、これほど大量に実際に偽札が使用された事例はなく、登戸研究所を舞台とした偽札印刷は、世界大戦中における最大規模の経済謀略であったとされる。

しかしこれは思わぬ結末を迎えた。大きな転機となったのは1941年12月、日本軍による香港攻略である。これにより重慶側の紙幣印刷工場を鹵獲し、工場の"ほんもの"の紙幣ならびに機材を押収した。このため用紙もインキも印刷機械も全て"ほんもの"を使い"、ほんもの"の紙幣を製作。"ほんもの"を大量に投入することになった。結果、この偽札工作は皮肉なことに、法幣不足に悩む重慶側を助けることになったとされる。

なお、登戸研究所は1944年頃から米機の空襲が頻繁となったため、研究所の第1科、第2科は、長野県伊那地方に疎開。偽札を製造をしていた前述の第3科は福井県武生市に疎開した。これはここに原料不足で稼働していなかった加藤製紙工場があったためで、ここを借り上げ引越しをしたが、その途中に終戦となった。印刷機械設備は日本海に投棄するなど痕跡をとどめないようにしたという。

中国に渡った偽札は戦後どう扱われたかは分からないとされてきたが、終戦後に中国に残留して軍閥の反共工作に協力した元日本軍人によって利用されたともいわれている。

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