http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%BE%A4%E8%A8%88%E4%B8%83#.E7.95.A5.E6.AD.B4
1923年1月、関東地方の非総同盟系の統一組織である「労働組合同盟会」の機関紙『労働週報』の編集常任に選ばれ、同紙を「総聯合」再建のメディアと位置づけ、1面を「自由討論欄」とし、「思想や意見の違いは議論で。一致できるところでの統一行動を」というルールを定着させようとした。
それは次第に効果を発揮し、治安維持法の前身である「過激社会運動取締法案」が国会に上程された時には、思想や党派を超えた労働組合の全国規模の共闘組織が生まれ、東京だけでも1万に及ぶデモや集会が組織され、同法案を廃案に追い込んだ。
しかし、その直後、関東大震災のさなか(9月3日夜)、平澤は、身柄を拘束された亀戸署で習志野聯隊の兵士たちによって銃剣で刺殺された。いわゆる亀戸事件で、以上のような活動によって、大杉栄たちと同様、当時の日本の支配層あるいは軍部にとって「危険な人物」と思われていた結果といわれている。
《備考~「統一戦線」を組まない形でのレジスタンス》
司馬遼太郎「坂の上の雲」。文庫版・第六巻より
http://kataribedoujinn.at.webry.info/200904/article_929.html
「多数の党派がそれぞれ利害や主張を異にし、しかもそれらがもつれ合っているためにとうてい超党派的な会同会議などはできない」といわれていたものが、みごとに成功したのは、シリヤクスの努力によるところが大きかった。
「われわれはこの戦争を機会に、ロシア国とロシア人のためにこの悪魔をたおさねばならない。倒すためには、あらゆる党派が、その得意とする方法を用いる。それは統一戦線を必要としない。それぞれの党派が、可能かつ有効と信ずる方法をもっていどみかかればよい」というものが、出た結論であった。
言論の得意な党派、デモの得意な党もあれば、ストライキを煽動することに長じた党もあった。
「われわれがやれるのは暗殺だけよ」と、、コーカサスの連中は物騒なことをいったが、過去に多くの実歴をもっているため、発言としては重厚なうらうちがあった。