(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140708-00050085-yom-int
https://web.archive.org/web/20140708095226/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140708-00050085-yom-int
声明は、日本の集団的自衛権について性急な評価は避けるとしながらも、「安全保障の問題には周辺国が敏感に反応することを、日本は自覚しなければならない」と指摘した。
《歴史の教訓》
☆松岡洋右
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3#.E9.80.B8.E8.A9.B1
山田風太郎は自著『人間臨終図鑑』の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。
☆日本の降伏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F#.E7.B5.82.E6.88.A6.E5.B7.A5.E4.BD.9C
木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋をすみやかにおこなうよう政府首脳に要請した。
しかし東郷は広田・マリク会談に時間をかけすぎ、進展が見られなかった(広田はマリクとの最後の会談でソ連に和平斡旋の条件として、満州国の中立化などを提案しているが、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった)ことから、天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた。
東郷は近衛文麿に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった。
しかし、すでにソビエト連邦は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヶ月以内の対日宣戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。
5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスの陸海軍駐在武官からソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐からシベリア鉄道における兵力の極東方面への移動が関東軍総司令部に報告されたりしていたが、これらの情報は軍・外務省の間で共有されなかったり、希望的観測のもとに軽視される結果となった。
7月のポツダム会談では近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。
一方、日本政府はソ連の仲介を期待して「ノーコメント」とする方針を取り8月の広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日宣戦を回避することはできなかった。