(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20130716k0000m030076000c.html
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/409.html
エジプト軍のクーデターで追放されたモルシ前大統領の支持派と軍・治安部隊が8日未明にカイロ北東部の共和国防衛隊施設前で衝突、50人以上の死者を出した事件で、銃で武装した集団が座り込みを続けていたモルシ派と軍側の双方に向けて発砲し、これが引き金となって両陣営の衝突に発展した可能性が15日、複数の目撃証言で浮上した。
《おまけ》
☆盧溝橋事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1発目を撃った人物
秦郁彦、安井三吉によれば日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとしている。しかし坂本夏男は、第29軍が盧溝橋事件の数ヶ月前から対日抗戦の用意を進め、盧溝橋付近の中国軍は、7月6日、戦闘準備を整え、7日夜から8日朝にかけ日本軍に3回発砲し(最初の発砲の前後には、宛平県城の城壁上と龍王廟のあたりで懐中電灯で合図していた)、中国共産党は7月8日に全国へ対日抗戦の通電を発したことから、中国側が戦端を開くことを準備し、かつ仕掛けたものであり、偶発的な事件とは到底考えられないと主張している。
中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在する。
現場大隊長で後に中国共産党側に転向した金振中は、一貫して堤防への配兵を否認してきたが、1986年に出版された『七七事変』(中国文史出版社)の中で、部下の第11中隊を永定河の堤防に配置していたことを認めたうえ、部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地100メートル以内に進入したら射撃せよ、と指示していた事実を明らかにした。
中共軍将校としての経歴にもつ葛西純一は、中共軍の「戦士政治課本」に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」と記入してあるのを自身の著作(新資料・盧溝橋事件)に記している。これが「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているが、秦郁彦は葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえないとしている。
常岡滝雄によれば当時紅軍の北方機関長として北京に居た劉少奇が、青年共産党員や精華大学の学生らをけしかけ、宋哲元の部下の第二十九軍下級幹部を煽動して日本軍へ発砲させたもので、1954年、中共が自ら発表したとしている。
一方でサーチナ(2009年5月15日付)によると、広東省の地元紙・羊城晩報に掲載された論説で、「中国共産党陰謀説」は「荒唐無稽な説」としながらも「劉少奇が盧溝橋事件を起こした」「劉少奇が盧溝橋で、日本軍と戦った」との記述が、共産党支配区域で配られた「戦士政治読本」と言うパンフレットに確かに書かれていると伝えている。
ただし、これは中国共産党がプロバガンダのために嘘の戦功を書いたのであって「われわれ中国人の伝統的ないい加減さ」を指摘する論旨であり、このような嘘がかえって自分達の主張の信憑性を貶めていると結んでいる。
当時、北平大使館付武官輔佐官であった今井武夫少佐は以下のように述べている。
最初の射撃は中国兵による偶発的なものか、計画的なもの、あるいは陰謀、この陰謀は日本軍による謀略、または中共あるいは先鋭な抗日分子による謀略だとなす説がある。これについて色々調査したが、その放火者が何者であるかは今もって判定できぬ謎である。ただし私の調査結果では絶対に日本軍がやったとは思わない。単純な偶発とする見方〔恐怖心にかられた中国兵の過失に基づく発砲騒ぎ〕は、いかにもありそうな状況であり、あり得ることであった。また抗日意識に燃えた中国兵の日本軍に対する反感が昂じ、発作的に発砲したのが他の同輩を誘発したとしても有り得ないことではない。しかし事件前後の種々の出来事を照合してみると、右の原因だけでは依然解釈のつかない問題も残り、陰謀説を否定し去ることはできない。肝心なことは、最初の射撃以後、何故連鎖的に事件が拡大されていったかという政治的背景の究明である。
また、中国共産党北方局による抗日工作が第二九軍内に浸透したため、軍内の過激分子によって事件が引き起こされたとなす説がある。これは状況証拠すなわち前後の事情からして、ありそうなことである。また戦後に中共軍政治部発行の初級革命教科書のなかに「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があるとのことであり、中共による謀略の疑いも大きい。