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2013年7月28日日曜日

【鉄騎隊】山本太郎議員は小沢方式ではなく「クロムウェル方式」を採用するとベターかもしれない

ろろ
https://twitter.com/roro_yameroTPP/status/361337263600312321
小沢一郎は、議会で多数派を取るという正攻法を取ったため、その過程でトロイの木馬を抱え込むという宿命を抱えており、官僚機構とマスメディアの総攻撃で抹殺された。山本太郎は同じことをやる必要はない。この国の政府が隠しているものを暴き、国民の横の連携を作ることに徹するべきだ。


そとん
https://twitter.com/thoton/status/361348854643294209
山本太郎は、過激な政治的主張はしていない。「あんな事故があったんだから原発はなくそうよ」という穏当な主張をしてるだけだと思う。そんな当たり前のことさえ言わせてもらえない日本社会に対しては、ある意味、過激にノーと言ってるが。そして、そのことが広く共感を呼び、彼は当選できたのだと思う



☆鉄騎隊

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%A8%8E%E9%9A%8A

鉄騎隊(てっきたい、英: Ironside)は、清教徒革命において、最初にオリバー・クロムウェルが指揮した騎兵隊に付けられたあだ名。クロムウェルが「Old Ironsides」と呼ばれていたこと由来する。

1642年10月23日、エッジヒルの戦いでの敗戦直後、クロムウェルは議会軍の大佐ジョン・ハンプデンに「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい。これからは信者の軍をつくらなければならない」と語った。

王軍に対抗してノーフォーク、ケンブリッジなど5州が連合した東部連合にクロムウェルは手勢1,000名余を引き連れて参加した。この連隊はクロムウェルが私財1,100~1,200ポンドを投じてつくった文字通り「宗教信者」の軍だった。冒涜の言、飲酒、乱暴、不信仰はこの隊では許されず、また良家の子弟以外は指揮官になれないという当時の伝統を破っていた。

ある時クロムウェルは「私は自分が何のために戦っているかを知り、自分が知るところのものを愛する粗末な朽葉色の服を着た隊長を大事と思う。いわゆる紳士と称するだけで、それ以上の何ものでもない人よりも」と発言している。

信仰の内容については「独立教徒であろうと再洗礼派であろうと、正直で真面目なキリスト教徒であれば誰でも」この連隊で用いられた。ジェントリ、ヨーマンが中心であった。

1643年10月ウィンスビーの戦い(英語版)では「詩篇を歌い感謝しつつ」突撃し、リンカンシャーから王党を一掃した。1644年7月2日マーストン・ムーアの戦いでカンバーランド公ルパートの騎兵と直面し、潰走させて武名をあげた。後のニューモデル軍(英語: New Model Army、新模範軍とも)の中核となり、議会派の勝利獲得に貢献した。



☆オリバー・クロムウェル

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB

1642年10月23日、エッジヒルの戦いでの敗戦直後、クロムウェルは議会軍の大佐ジョン・ハンプデンに「酒場の給仕や職人の軍隊で上流人士の騎士たちと戦を続けることは難しい。これからは信者の軍をつくらなければならない」と語った。

王軍に対抗してノーフォーク、ケンブリッジなど5州が連合した東部連合にクロムウェルは手勢1,000名余を引き連れて参加した。この連隊はクロムウェルが私財1,100~1,200ポンドを投じてつくった。教派にこだわらず、キリスト教徒であれば誰でも連隊で用いられた。ジェントリ、ヨーマンが中心であった。

このクロムウェルの連隊は、鉄騎隊とよばれた。これは後のニューモデル軍(英語版)(新模範軍)の中核となった。

エッジヒルの戦い後、国王軍はオックスフォードに本拠をおき北部・西部を抑え、議会軍はロンドンを拠点に南部・東部を支持基盤とした。

1643年10月11日ウィンスビーの戦いでは「詩篇を歌い感謝しつつ」突撃し、リンカンシャーから王党を一掃した。

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