神浦元彰(軍事評論家)
https://twitter.com/kamiura_jp/status/299011963575472129
「中国軍と自衛隊の軍事衝突が起きる」と話して欲しいとテレビ番組のスタッフから電話。今回は中国軍の未熟を指摘し、「あえて危機を煽ることは出来ない」と断ると、そのように話せる人を紹介して欲しいと聞かれた。またか。どうしてテレビは戦争をさせたいのか。明日は日中戦争が始まると放送なのか。
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▼ ヘルマン・ゲーリングの言葉 ▼
もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じことです。
ですが、政策を決めるのはその国の指導者です。
…そして国民はつねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。
国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。
このやりかたはどんな国でも有効ですよ。
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☆マスメディアの戦争責任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB
このような言論統制の「被害者」という主張がある一方で、新聞は政府の外交政策を「弱腰」「軟弱外交」という形で糾弾し、対外強硬論を煽り、開戦を主張するなど、国民を開戦支持に導く役割も果たした。
(略)
言論統制の結果もあるが、日本のラジオ・新聞などは大本営の発表を検証しないままに過大な偏向報道をし、国民の多くは国際情勢ならびに戦況の実態を知らされず、戦争が長期化する大きな要因となった。
戦争が長期化すると、政府や軍の強硬派に迎合する形で戦争の完遂や国策への協力を強く訴える記事が多く掲載された。これには情報局の指導もあった。
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▼半藤一利「昭和史 1926-1945」(平凡社ライブラリー)p76~77▼
一方、日本国内では、この日の朝刊が──当時は朝日新聞と東京日日新聞(現在の毎日新聞)がダントツの部数でした──ともに俄然、関東軍擁護にまわったのですよ。繰り返しますが、それまでは朝日も日日も時事も報知も、軍の満蒙問題に関しては非常に厳しい論調だったのですが、二十日の朝刊からあっという間にひっくり返った。
(略)
どうしてこうなったか、これは一つにラジオのおかげだと思うんです。十九日午前二時頃に電報通信社からの第一報が入ったのを受け、午前六時半からのラジオ体操を中断して、「九月十八日午後十時三十分、奉天駐在のわが鉄道守備隊と北大営の東北陸軍第一旅団の兵とが衝突、目下激戦中」と伝え、この後もどんどん臨時ニュースを流すもんですから、新聞も負けじと勇ましい報道をはじめたのです。ちなみに当時約六十五万だったラジオの契約者数は、これを契機に月平均六万ずつくらい増え、昭和七年三月には百五万六千に達したといいます。ラジオの時代に突入したわけで、その影響で新聞も「号外」を連発するようになる。つまり「号外」戦となり、どんどん読者を煽っていくことになるのです。
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▼プロパガンダ戦~「偽装・草の根運動団体」を活用して世論誘導をおこなう手法▼
☆アストロターフィング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0
アストロターフィングとは、団体・組織が背後に隠れ、自発的な草の根運動に見せかけて行う意見主張・説得・アドボカシーの手法である。人工芝運動や人工草の根運動、偽草の根運動などとも和訳される。
(略)
アストロターフィングの手法としては、一般市民を装って多量の意見書簡を送りつける方法が古典的なものである。用語の考案者であるベンツェンは、自身が経験した特定企業が背後にあると思われるこの種の書簡による働きかけを表現するために、本物の草の根運動の芝生と「アストロターフ」の比喩を用いた。電話や電子メールを使っても同様の行為が行われている。
また、第三者の名義を用い、公平な立場を装って評論をマスメディアに寄稿することで宣伝を図る行為も、アストロターフィングにあたる。この場合の第三者は、実際には宣伝をしようとする者の関連団体などであるが、関係を隠して中立的な立場を装っている。
☆ヒル・アンド・ノウルトン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3
湾岸戦争での戦争プロパガンダ事件
メディアと民主主義センター (Center for Media and Democracy) によれば、1990年H&K社は、米国内で「アメリカ世論操作を狙った、外国資本によるかつてない最大のキャンペーン」を行い、他の20以上の米国の広報会社を率いた。 H&K社は、クウェート政府がほぼ全面的に資金提供した偽装草の根市民運動 (Astroturf) 団体自由クウェートのための市民運動 (Citizens for a Free Kuwait) が払う1,080万ドルで受注した。
1990年10月10日のアメリカ下院の下院人権議員集会 (Congressional Human Rights Caucus) で行われたナイラ看護師の証言が問題になった。「命からがらクウェートから逃げてきた」と言うナイラは、H&K社の副社長ローリー・フィッツペガドから直接演技指導を受け、ボランティアをしていたクウェート市のアル=アダン病院に、イラク兵が乗り込み保育器から取り出された多くの幼児が虐殺されたという嘘の証言を涙ながらに行った。このエピソードはサダム・フセインを非難するときに毎回のように引用され、ブッシュ大統領も「赤ん坊殺し」と言う表現を好んで使用するほど影響を与えた。湾岸戦争終結後、世界中のマスメディアがこの証言の真偽を確認するため取材したが、虐殺の証言が集まらない上に、100以上もあるはずの保育器そのものがクウェート全土に数えるほどしかなかった。現実には、ナイラは当時のクウェート駐米大使サウド・ナシール・アル・サバ (Saud bin Nasir Al-Sabah) の娘だった。
その後クウェート政府が危機管理会社クロール社 (Kroll Inc.) に委託した調査で、保育器が略奪され幼児が死亡したのは少なくとも7人と結論づけたが、何人が死んだか記録もないし現場のコンセンサスもないとした。調査によるインタビューで、ナイラは、議会での証言はH&K社が手伝って用意したものだと述べ、事件で赤ん坊が保育器の外にいるのを「ほんの一瞬」見ただけだったことを証言した。またナイラは、その病院でボランティアをしたことがなく、かつて数分間居たことがあるだけだったことも証言した。ワシントン・マンスリー (Washington Monthly) でTed Rowseは、被害者が159人と言う数字も、議会証言でH&K社から事前配布された資料には書かれていて、ナイラの口頭証言で数字が一切出てこなかったことから、H&K社が作ったものだと断定している。
☆ナイラ証言
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%A9%E8%A8%BC%E8%A8%80
ナイラ証言(ナイラしょうげん、Nayirah testimony)とは、「ナイラ」なる女性(当時15歳)が1990年10月10日に非政府組織トム・ラントス人権委員会(英語版)にて行った証言。イラクによるクウェート侵攻後、イラク軍兵士がクウェートの病院から、保育器に入った新生児を取り出し放置、死に至らしめた経緯を涙ながらに語った事で知られる。当時のマスコミはクウェートへ入れなかったため、この証言が信憑性のあるものとされ、広く喧伝された。アメリカ合衆国上院議員や大統領も幾度となく引用しており、湾岸戦争の布石を敷くこととなる。
当初はアムネスティ・インターナショナルや避難民からの証言により、裏付けの取れたものであった。しかし、クウェート解放以後、マスコミが同国内に入り取材が許された結果、新生児の件は虚偽であった事が発覚。また、1992年に「ナイラ」なる女性は苗字がアル=サバーであり、何と当時クウェート駐米大使であったサウード・ナシール・アル=サバーの娘との事実が暴露された。その上、証言自体がクウェート政府の意を受けた、ヒル・アンド・ノウルトンによる自由クウェートのための市民運動広報キャンペーンの一環であったのも明らかとなる。爾来、単なる戦時プロパガンダとして広く認知された。
(略)
自由クウェートのための市民運動は、クウェート大使館が設立、タイムズニュース社が執筆を行う、ワシントンD.C.に本部を置く、草の根市民運動を偽装して宣伝活動を行う(アストロターフィング)広報委員会であった。同委員会は大使館舎の一角を占めたものの、大使館からは独立して業務を行った。
ヒル・アンド・ノウルトンは1990年、ニューヨークでクウェートからの亡命者と接触した後、自由クウェートのための市民運動に参画。国家的キャンペーンの目的は、イラクの独裁者たるサダム・フセインによるクウェート侵攻について、アメリカ国内で世論を喚起することにあった。100万ドルを費やし、強硬な手段に向けた支持を勝ち取る最善策を決める研究に着手。研究によると、暴虐とりわけ保育器の話が最も影響がある事が分かった。なお、広報キャンペーンには、クウェートから1200万ドルの資金提供を受けたとされる
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☆フォークランド紛争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%B4%9B%E4%BA%89
アルゼンチンは1950年代までは畜産物と穀物輸出から得られる外貨と、その外貨を国民に分配した左翼民族主義者の大統領フアン・ペロンのポプリスモ政策によって先進国並みの生活水準を誇っていたものの、保守派と結託した軍のクーデターでペロンが追放されると、ペロン派(ペロニスタ)や、その流れを汲む都市ゲリラ(モントネーロスやペロニスタ武装軍団など)と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、牛肉など食料品の値上げにより国民生活を深刻な状況に陥れていた。
(略)
そして経済状況が一向に改善しないにもかかわらず、こういった政争に明け暮れる政権に対して民衆の不満はいよいよ頂点に達しようとしていた。
軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。
☆ウィキペディア「プロパガンダ」の項→
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80
バンドワゴン:その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外される事を恐れる性質があり、自らの主張が世の中の権勢であると錯覚させる事で引きつける事が出来る。
戦争遂行のためのプロパガンダ:
国家が戦争を遂行するためには、国民に戦争するしか道がないことを信じ込ませるために国策プロパガンダが頻繁に行われる。イギリスの政治家アーサー・ポンソンビーは、第一次世界大戦でイギリス政府が行った戦争プロパガンダを分析して、以下の10の法則を導きだした。
1. われわれは戦争をしたくはない。
2. しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。
3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ。
4. われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う。
5. われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。
6. 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
7. われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。
8. 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している。
9. われわれの大義は神聖なものである。
10. この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である。
フランスの歴史学者であるアンヌ・モレリは、この10の法則が第一次世界大戦に限らず、あらゆる戦争において共通していることを示した。そして、その著作の日本語版の辞のなかで、「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気づき、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠にはまってしまう」と指摘している。