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2012年8月8日水曜日

ソ連が対日参戦する情報は大本営に届いていたが握りつぶされていた


[タグ]小野寺信。堀栄三。瀬島龍三。


☆ソ連参戦情報の「小野寺電」 「大本営に着信」参謀が証言書簡
(産経新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120808-00000089-san-pol

http://www.peeep.us/f910c170

書簡によると、堀氏は「大本営の中には、次長、作戦部長、作戦課、軍務課の一握りの『奥の院』があって、同じ小野寺電でも、戦争の趨勢(すうせい)や軍の士気に重大な影響のあるものは、情報部にも見せず、一握りだけが握りつぶしていたことは確実です。好例としては、私の『台湾沖航空戦』の戦果に疑問を持った電報が握りつぶされたり(これは瀬島龍三氏((四十四期)))が私に告白しながら、その後は一切とぼけて語らず)、また『米国が原爆を研究中である』旨の情報が握り潰されて、私達が最後までテニアンの正体不明機を解明出来なかった」(7月26日付)と証言した。



☆台湾沖航空戦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6

大本営情報参謀であった堀栄三の回想によれば、台湾沖航空戦中にたまたま鹿児島に滞在していたところ、鹿屋で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行い内容に疑問を持ち、「当該戦果は重巡数隻程度と推測」と戦闘中に既に大本営情報課に連絡し、その後情報課から作戦課へ報告がされたが、省みられることがなかったという記録がある。この戦果が虚報であることはフィリピンの山下奉文大将に出張時に報告され、現場と、虚報を前提にして作戦立案した大本営との方針対立を招く一因となった。

なお、この海戦の報道以降「第3艦隊」とか「第5艦隊」、「第58任務部隊」などという記述が見受けられるようになったが、第3艦隊と第5艦隊が単にトップと幕僚と一部艦船の差異だけで実質同一艦隊であるということに、日本海軍情報部は気付いており、1944年10月11日の電報で各艦隊司令長官宛に通知している。しかし、当時の海軍軍人を含む大部分の日本人は、第3艦隊と第5艦隊を別と認識していたようである。海戦の翌年、第58任務部隊(第38任務部隊)が硫黄島攻略戦援護で関東方面を空襲した際の報道にも、「台湾沖航空戦で第3艦隊が潰滅した後、急遽残存艦船を以て第5艦隊を編成し・・・」という新聞記事もある。



☆堀栄三

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89

堀さんがなぜ当てたんだろうという疑問を持ちまして、ところが 『回想録』 なんかには全然そういうものは載ってないんですね。(中略)それでインタビューでずばりいったんです。どうしてあれだけの的確性というか、正確性が出たんですかといったら、堀さんは、そんなことはわけないことなんだというんです。

十四方面軍の情報部に下士官だけで十名ぐらいいて、将校が三名かな、毎日毎日、ともかく基礎的な情報をざーっと書かして、積み上げていった。例えば台湾沖航空戦の戦果判定についても、すぐに堀さんは疑問を出すんです。山下奉文と武藤章に対して、危ないですよという。そんなことをおっしゃったのは、何を根拠にといったら、こういうことをいっていました。

直後の空襲で捕まえた各米軍のパイロットの尋問をして、発艦した母艦名を尋問をして並べてみたら、全部そろったというわけですね。これはおかしいじゃないか。ピンピンしているじゃないかということで(中略)果たして、マッカーサーの回し者ではなかったんで、まさに正攻法でやった方でございましたね。

~近藤新治「太平洋戦史研究部会第二回セッション コースト・ウォッチャーズ」『太平洋学会誌』1987年(昭和62年)1月、20頁


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