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2012年6月8日金曜日

〔橋下徹旋風〕維新は原発推進派・反対派の両方から支持を取り付け天下盗り


関西在住者からの情報

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朝日放送のおはようコールABC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%AF%E3%82%88%E3%81%86%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%ABABC
のナットク!ニュース塾、今朝は国際日本文化研究センターの評論家、井上章一さんのお話でした。


 維新の会で、2トップ、橋下氏と松井氏の見解が異なるのです。大飯再稼動は橋下氏事実上容認に対して、松井氏はアリバイ作りに使われたと言う等食い違いがあり、井上さん、平松氏と橋下知事の時代ほどではないが違い、これについて、大阪市の関係者は、民主、自民の双方にいい顔が出来るように、このような戦法を取っているとコメントしており、維新の会、勢力を伸ばす時期になり、民主にも、自民にも擦り寄るようにこういう方法を取っているとしたら、嫌なことだとのコメントがありました。

 また、東電OL殺人事件で被告に再審であり、97年当時、被害者女性のプライバシーをメディアが暴きすぎたと井上さん指摘して、そしてDNA鑑定が決め手となり、これにより過去にも冤罪があったと井上さん指摘されました。また、被告の方、日本語をよく勉強しており、故国に帰っても日本語を生かせる仕事をして欲しいが、しかし本人は日本など嫌であるかも知れないと思っているかも知れないとコメントがありました。

  この他、オウム事件のこともあり、これにより他のニュースがかき消されている印象もありました。




《おまけ》

☆真田信之

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B

秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。父と弟・信繁は三成ら西軍に付いたのに対し、信幸は家康ら東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。

戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩主となったが引き続き沼田城で本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀伊九度山へ流罪となる。




☆前田利政

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%94%BF

利家の死後に慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如利長たちは金沢へ引き返した。一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる。このため合戦に間に合わなかった。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣した際に利政は動かなかった。その原因は妻が三成の人質となっていたためとも、元々豊臣方であったためとも、どちらが敗れても前田氏の家名を残そうとする策であったともいわれる。




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