☆ツイッターに「放射能が拡散」、真鶴町議が焼却灰の県外搬出で/神奈川 (カナロコ)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120425-00000010-kana-l14
http://www.webcitation.org/67G7M2DiI
発議したのは、青木嚴、青木繁の両町議で「書き込んだ内容は法的には問題ないが、町議員として騒動の一因をつくった社会的、道義的責任がある」(青木嚴町議)などと理由を説明している。
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☆家庭ごみ灰:焼却灰問題 真鶴町議会、村田議員の辞職勧告決議--道義的責任で /神奈川
(毎日新聞。4月28日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120428-00000016-mailo-l14
http://www.webcitation.org/67G8TjDNl
真鶴町議会は27日の臨時会で、村田知章議員(37)に対する辞職勧告決議案を賛成多数で可決した。湯河原、真鶴両町の家庭ごみの焼却灰が奈良県内の処理業者に受け入れを拒否された問題に絡み、村田議員が「放射能汚染」などとツイッターに書き込んだことが受け入れ拒否につながったとして、「議員としての道義的責任がある」と決議案が提出された。
《おまけ》
☆反軍演説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%BB%8D%E6%BC%94%E8%AA%AC
反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会で衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫が行った演説。日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。この演説により、3月7日、斎藤は衆議院議員を除名された。この経緯は言論弾圧としても扱われる。
(略)
民政党は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして、受諾。また、総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から、自発的に議員辞職をするよう促されたが、断固拒否した。
(略)
反対者はわずか7名と、圧倒的多数の賛成票によって斎藤は衆議院議員を除名された。この投票結果や経緯は、ただ単に軍部の政治介入による結果だけではなく、政党自体が議会制民主主義を破壊したとする「自壊」の面があることも斎藤自身も様々な歴史家らも厳しく指摘している。なお、議長の小山は在職中「スターリンのごとく」発言の西尾末広についで、2人の除名決議の議事に携わったことになる。
その後、民政党は斎藤を見捨てたとして、内外の信用を失い、町田の求心力は落ち、後の解党への流れとなる。政友会久原派も反対した5名に離党勧告、総裁の久原房之助は除名を強行しなかったものの、結果として解党へと向かう。社会大衆党は、書記長麻生久により、党首の安部や片山ら除名に賛成しなかった8名に離党勧告を出し、安部ら8人は離党を拒否し、除名処分を強行、反対派を追放することにより、軍部に従順な態度をより鮮明にした。親軍部の政友会中島派、時局同志会、社大党の主張通り、革新運動が加速し、戦争遂行のための協力体制と称し、大政翼賛会への流れへと直結した。
(略)
なお、反軍演説がなぜ衆議院議員を除名されるという結果まで引きおこしたかについて、斎藤は以下を挙げて説明をしている。
第一は、政府の無能
第二は、議長が速記録を削除したこと
第三は、政党の意気地なきこと
☆中野正剛
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B
そして、同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。
諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。
この正剛の呼びかけに、学生たちは起立して校歌「都の西北」を合唱してこたえた。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
☆ガリレオ・ガリレイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた。その後につぶやいたとされる"E pur si muove"(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言した事実は無いと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らによって後付けで加えられた説が有力である。