このブログを検索

2014年2月6日木曜日

〔東京MX動画〕都知事選・候補者の戦い~細川護熙氏(と小泉純一郎応援弁士)

「TOKYO MX NEWSでは東京都知事選挙の主な立候補者の選挙戦をシリーズでお伝えします。きょう­は元・総理大臣の細川護熙さんです」



【ビッグデーター】グーグルトレンドでは細川護熙候補が他候補を引き離しての首位

※ パソコン以外では読み込めない可能性。



明日(金曜日)の細川護熙候補と小泉純一郎氏の遊説予定

https://twitter.com/morihirotokyo/status/431366196437340160




〔写真〕細川護熙候補と小泉純一郎氏(脱原発最強タッグ)の練馬駅前での演説に押し寄せた大群衆

https://twitter.com/Tagayajimusyo/status/431362207033462784/photo/1




大本教(出口なお→出口王仁三郎)が意見書「TPPは弱肉強食」 

☆TPPは弱肉強食 大本・人類愛善会が意見書
(宗教紙「中外日報」)

http://www.chugainippoh.co.jp/religion/news/20140206-002.html

https://web.archive.org/web/20140206090946/http://www.chugainippoh.co.jp/religion/news/20140206-002.html

文書では、TPPの狙いは「全加盟国が米国基準に準拠した貿易自由化を実現すること」であり、米国が国力を背景に「格差社会を生んだ米国内基準を押し付けるのは、われよし・強いもの勝ちという弱肉強食の論理」だとして、断じて認められないと主張。



☆大本

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC

大本(おおもと)は、1892年(明治25年)、出口なおに降りた国祖・国常立尊の神示を立教の原点とする教派神道系の教団である。俗に「大本教」と呼ばれているが、正確には“教”を付けない。

前記の通り1892年(明治25年)、霊能者出口なおに、「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑る。(数年を経て出口王仁三郎の審神者により、この神が国祖国常立尊であると告げられる)。1898年(明治31年)出口なおと出口王仁三郎が出会い、教団組織を作ることになる。王仁三郎は、出口なおの娘婿として養子となった。やがて戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した。

出口なおには、厳霊・国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)による直接内流によって伝えられた。

出口王仁三郎には、主に豊雲野尊、小松林命などの瑞霊系の神懸りによって、神示が直接内流として伝えられていたが、出口なおの昇天後には厳霊の神懸りも加わると共に、主神の神霊も本格的に神懸るようになり、『霊界物語』の口述が開始されることになった。

戦前、政府から二度の弾圧を受け、組織と施設に潰滅的な被害を受けた。



☆オートマティスム

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E7%AD%86%E8%A8%98

オートマティスム(Automatism、Automatic writing)とは、心理学用語で「自動筆記」「自動記述」という意。あたかも、何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象などを指す。



☆デルポイ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%82%A4#.E3.83.87.E3.83.AB.E3.83.9D.E3.82.A4.E3.81.AE.E7.A5.9E.E8.A8.97

史実において有名なデルポイの神託には、ヘロドトスの『歴史』が伝えるアテナイへの二つの神託がある。ペルシア戦争時にアテナイは初め滅亡を暗示する神託を得たのち、再び使者を立て、以下の神託を得た。

されどアイギス保つゼウスの御娘は、木の壁のみを守りとてアカイア人に与え給う。
— ヘロドトス『歴史』

これをアテナイ市街を焼き払って当時は木造の壁に守られていたアクロポリスに籠城すると解釈するものがあったが、テミストクレスは「木の壁」を船を指すものと解釈し、三段櫂船を造らせて、サラミスの海戦にペルシア軍を破った。

【送料無料】新釈中国古典怪談 [ 岩谷薫 ]
【送料無料】新釈中国古典怪談 [ 岩谷薫 ]
価格:1,680円(税込、送料込)


〔歴史メモ〕漂着死体に偽装書類を持たせてドイツを欺いた「ミンスミート作戦」

☆内閣府職員の死因は低体温症か (日本テレビ)

http://www.news24.jp/articles/2014/02/03/07245033.html

先月、福岡県北九州市の沖合で遺体で発見された内閣府の男性職員について、死因は低体温症とみられることがわかった。



☆内閣府職員死亡 低体温症か溺死か (NHK)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140203/k10014988431000.html

https://web.archive.org/web/20140206025224/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140203/k10014988431000.html

先月、北九州市の沖合で漂流していたゴムボートが転覆し、海底から遺体で見つかった内閣府の男性職員について、死因は低体温症か溺れたことが原因とみられることが分かりました。



☆ミンスミート作戦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BD%9C%E6%88%A6

ミンスミート作戦(ミンスミートさくせん、英: Operation Mincemeat)は、第二次世界大戦中の1943年にイギリス軍が実行し、非常な成功を収めた諜報作戦(欺瞞作戦)であり、ナチス・ドイツの上層部に連合国軍はシチリア(実際はこれが真の目標であった)ではなく、ギリシャとサルデーニャに侵攻を計画していると信じ込ませることに成功した。

これはドイツ側に、彼らが全くの「偶然」から、連合国軍側の戦争計画に関する「極秘書類」を入手したと信じ込ませることで成し遂げられた。実は極秘書類はこの作戦のために用意された死体に固定されて、スペインの沿岸に漂着するように故意に投棄されたものであった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BD%9C%E6%88%A6#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9.E6.B5.B7.E5.85.B5.E9.9A.8A.E3.80.81.E3.82.A6.E3.82.A3.E3.83.AA.E3.82.A2.E3.83.A0.E3.83.BB.E3.83.9E.E3.83.BC.E3.83.81.E3.83.B3.E5.B0.91.E4.BD.90

著名な病理学者であるサー・バーナード・スピルズベリー(Sir Bernard Spilsbury)の援助の下に、モンタギューとそのチームは、彼らが必要としている死体を「男性で海中で低体温症に陥り溺死し、数日後に沿岸に流れ着いた」ように見えるものと決定した。

しかし、このように都合のよい死体を見つけ出すことはほとんど不可能な様に見えた。目立たないように調査してもうわさ話を引き起こすであろうし、死者の親族に何のために遺体が必要であるかを説明することは不可能であった。

しかし密かなプレッシャーの下で、セント・パンクラス(St. Pancras District in London)の検視官であったベントリー・パーチェス(Bentley Purchase)が、真の身上は決して明かさないという条件の下で、34歳の男性の死体を入手することに成功した。

この男は、殺鼠剤を嚥下した結果、化学物質によって引き起こされた肺炎が原因で死亡した。そのため、肺の中には滲出した体液が溜まり、海で死亡した状態と整合が取れていた。

サー・バーナードと同程度に有能な病理学者はごまかせないであろうが、バーナードはスペインにはそのような人物はいないと保証した。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BD%9C%E6%88%A6#.E5.AE.9F.E8.A1.8C

イギリス海兵隊の戦闘服を着用したマーチン少佐は鋼鉄製のキャニスター(円筒ケース)に収められた。キャニスターにはドライアイスが詰められ密閉された。ドライアイスが融けてしまうと、酸素は追い出されてキャニスターは二酸化炭素で満たされ、死体は冷凍されることなく保存されることになる。

チャムリーとモンタギューはそれをスコットランドのホーリー・ロッホに輸送し、そこでイギリス軍の潜水艦セラフ(HMS Seraph)に積み込まれた。セラフの艦長ノーマン・ジュエル中尉 (Lt. Norman Jewell) と乗員は以前に特殊作戦に従事した経験を持っていた。ジュエルは部下にこのキャニスターには極秘の気象観測機器が収められており、スペインの近くに配備される予定だと話していた。

1943年4月19日、セラフは出港し、4月30日にスペインの海岸の沖数マイル、ウエルバという町の近くに到着した。イギリス軍は、ウエルバにスペインの当局と親しいアプヴェーアのエージェントが居ることを知っていた。

4月30日午前4時30分、セラフは浮上した。ジュエル中尉はキャニスターをデッキに運ばせ、士官以外の乗員を船内に戻らせ、士官たちに秘密作戦について手短に説明した。彼らは、キャニスターを開け、マーチン少佐に救命胴衣を着け、書類の入ったブリーフケースを取り付けた。葬儀は命令の中では特に指示されていなかったが、ジュエルは賛美歌39番を読み上げ、海流が沿岸に運んでくれる海域で、死体は丁寧に海中に入れられた。ジュエルは後で委員会に「ミンスミートは完了した」とのメッセージを送った。

死体は午前9時30分頃、地元の漁師ホセ・アントニオ・レイ・マリアによって発見された。

書類は完全に丸呑みにされた。モンタギューと彼のチームがマーチンの身上を創り上げるのに惜しみなく配った配慮は報われていたのである。かなり後で彼らは知ることになるのであるが、ドイツ人達は劇場のチケットの半券の1943年4月22日という日付に着目し、それが本物であることを確認していたのである。

その結果、ヒトラーは偽装文書の真実性を確信し、シチリアが最もあり得る侵攻ポイントであるというムッソリーニに同意せず、シチリア島へのいかなる攻撃も陽動作戦と見なすことを主張することになったのである。

ヒトラーはサルデーニャとコルシカ島の軍備増強を命令し、エルヴィン・ロンメル元帥を、軍集団を創設するためにアテネに派遣した。反面、シチリア防衛のための割り当てられていた警備艇と掃海艇および機雷敷設艇は分散配備されることになった。

〔歴史メモ〕ゾルゲ諜報団が日本の機密情報を国外に持ちだしたルートと手段

☆マックス・クラウゼン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B3#.E6.97.A5.E6.9C.AC


1936年2月、別のドイツ人工作員の家でウラジオストクとの通信を開始。通信は安全のため時々場所を変えて行われ、茅ヶ崎の農家からも発信した。

また妻アンナはクーリエ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8
として上海と日本を18回も行き来して、フィルムや日本・ドイツ当局の機密書類を運んだ。

クラウゼンは工具製作所を経営するドイツ人の元で働いていたが、やがてドイツからのオートバイ輸入業を始め、独自にコピー機製作所「クラウゼン商会」を経営した。その仕事で日本の軍人や実業家、大学教授に知遇を得た。その関係のおかげで、アンナは日本軍将校のはからいで日本の軍用機で上海に赴いたことさえあった。

1938年からは通信を暗号化し、最後まで日本側は暗号を解読できなかった。

満州で日本とソ連による国境紛争が起きた時、クラウゼンは即座に日本軍の動きを打電した。東京にはドイツの情報部員もおりゾルゲは監視されていたが、馬脚を現すことはなかった。

しかし暗号化作業や偽装工作は心身に重圧を与えるものであり、1940年にクラウゼンは心臓発作で倒れ、ドイツ人医師の治療を受けて箱根で静養している。


やがて第二次世界大戦の緊迫する情勢の中、上海との連絡が難しくなり、東京のソ連大使館にいる担当領事との接触で連絡を取るようになった。これは危険を伴うので今まで避けられていたのだが、なおも暴露されることはなかった。

1941年3月5日、クラウゼンは「ドイツ軍50個師団がソ連侵攻のため準備されている」という情報を送った。5月には「ドイツ軍の規模は150個師団、期日は6月15日(実際は22日)」という詳細な情報を送ったが、モスクワはこの情報を疑った。しかし現実に独ソ戦が始まり、情報の正確さが証明された。さらに9月、クラウゼンは日本軍がソ連極東に対する攻撃に乗り出すことはないという情報を送った。これにより極東ソ連軍がヨーロッパに送られ、ドイツ軍の進撃を止めた。

 ゾルゲのグループは1936年から5年間で805の通信を行い、うち363が司令部や大臣に届けられる重要情報だったといわれる。日本側が傍受していたのはそのうち4分の1に過ぎなかったとクラウゼンは回顧している。

ゾルゲのグループが逮捕されたのは、彼らに協力していた日本人の共産主義者から足がついたためだった。



☆ブランコ・ド・ヴーケリッチ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A7.E3.81.AE.E6.B4.BB.E5.8B.95

ヴーケリッチの主な諜報活動は、記者としての情報収集とその分析、資料の写真撮影・現像・複写(自宅内に暗室があった)、さらに無線技術メンバーによる無線発信の援助であった(自宅は無線発信所の一つとなっていた)。

資料写真はマイクロフィルムに焼き、主にゾルゲを通してソ連側のクーリエ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A8
に手渡された。

〔メモ〕外務省から出向中の内閣情報調査室・内閣参事官が自宅の浴室で怪死

☆内閣参事官が自殺か 東京・渋谷のマンション
(2013/04/01 共同通信)

http://www.47news.jp/CN/201304/CN2013040101001449.html

外務省によると、男性は同省から内閣情報調査室に出向中だったという。

〔歴史メモ〕金大中事件:拉致された金大中氏は「海に投げ込まれ」そうになった

☆金大中事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E4.BA.8B.E4.BB.B6.E3.81.AE.E7.B5.8C.E7.B7.AF

1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金大中は東京のホテルグランドパレス2212号室に病気療養のため宿泊していた梁一東(ヤン・イルトン)民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は九段下の交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連に至近の場所に位置している。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベータで地下に降ろされ車に乗せられた。ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、工作船(コードネームは龍金(ヨングム)号)で神戸港から出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。

金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる)アメリカの通報を受けた自衛隊機が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行し、ソウルで解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

やきとりのいない八月

飛び地A

ブログ アーカイブ

The Daily Star(レバノン)

Rudaw(イラク)