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2016年12月13日火曜日

【国会/カジノ法案】民進党が共産党と事実上の「手切れ」となった模様

☆カジノ含むIR法案 修正のうえ委員会採決の見通し
(NHK)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161213/k10010805661000.html

https://web.archive.org/web/20161213103212/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161213/k10010805661000.html

共産党などは「修正の内容を聞いておらず、あまりに審議の進め方が乱暴だ」と採決に反対しましたが、法案は修正のうえ、内閣委員会で採決が行われる見通しとなりました。




《おまけ》

☆八月十八日の政変

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期(幕末)の文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放したクーデター事件である。

文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)、堺町門の変とも呼ばれる。

(略)

大和行幸の詔は8月13日に発せられたが、前後して会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策していた。

8月15日、松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと、 高崎正風(薩摩)と 秋月悌次郎(会津)が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して天皇を説得、翌17日に天皇から中川宮に密命が下った。

会津藩は兵1500名を動員し、政変の中心となった(薩摩藩兵は150名)。

やきとりのいない八月

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