(沖縄タイムス。4月26日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150426-00000011-okinawat-oki
https://web.archive.org/web/20150427205237/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150426-00000011-okinawat-oki
関係者によると23日に嘉陽宗克辺野古区長らが上京し、防衛省などで政府関係者と面会、振興策などについて協議したという。
《おまけ》
☆借刀殺人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%9F%E5%88%80%E6%AE%BA%E4%BA%BA
同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける戦術。敵を討っても自軍の損害は出さないことも目指している。例えば、敵のうちの一国と密かに講和して、交換条件に今までその国が同盟していた他の敵国を背後から奇襲させるというような計も借刀殺人にあたる。
鄭の荘公が、鄶を奪おうとしたとき、まず鄶の臣下のうち勇猛な者、優秀な者の氏名を書き連ねて、鄭が彼らに官位や土地を与えるとした誓約書を捏造した。それを鄶の都の城門の外に立てた祭壇の下に埋め、そこに鶏の血まで撒いて、あたかも誓約の儀式が本当になされたかのように工作した。鄶の君主はこれを見つけて、誓約書に氏名のあがっている者をことごとく殺してしまった。荘公はすかさず鄶を滅ぼした。
紀元219年、蜀の関羽は魏の樊城を攻めた。魏の援軍は撃退され曹操は遷都を検討するほどの窮地に陥った。ここで司馬懿と蒋済は、関羽の領土を分け合うことを条件に、呉の孫権と同盟することを曹操に献策した。魏と同盟した孫権は、関羽に恨みを持つ糜芳と傅士仁を寝返らせて、関羽の本拠地の江陵を占領した。関羽はやむなく樊城から撤退したが、呂蒙の懐柔工作で関羽軍からは離反者が続出。関羽は息子とともに孫権の軍に捕らえられ殺されてしまった。
1600年10月21日の関ヶ原の戦いでは徳川家康を中心とした東軍に懐柔された西軍の小早川秀秋が戦闘中に西軍を離反したことが勝敗を決定付けた。