このブログを検索

2014年11月9日日曜日

【沖縄県知事選】週刊ポスト「首相官邸は当選後の翁長雄志候補の懐柔を狙う」

沖縄知事選「移設反対」の翁長候補に安倍官邸が慌てて秋波を送った
◆沖縄県知事選、米軍普天間飛行場移設問題、名護・辺野古
週刊ポスト(2014/11/21), 頁:58
http://www.zasshi.com/zasshiheadline/syuukanpost.html




《備考》

☆沖縄知事選 惨敗必至の自民党が画策する「公約撤回」作戦
(日刊ゲンダイ。8月11日)

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/152508/2

http://www.asyura2.com/14/senkyo169/msg/690.html

「仲井真知事や沖縄の自民党国会議員にしたように、当選後の翁長氏に『移設反対』の公約撤回を迫る作戦です。すでに水面下で接触を図っているとも、一部で報じられています。

翁長氏はかつて自民党県連幹事長を務め、15年前の県議時代、辺野古移設推進決議案を可決させた旗振り役。

過去のインタビューでは『ぼくは非武装中立では、やっていけないと思っている。集団的自衛権だって認める』と発言するなど、安倍自民と近い考えも持っている。安倍政権は公約撤回のためにあらゆる懐柔策を繰り出してくるでしょう」

(地元紙記者)




《御神輿が、その担ぎ手を裏切って暴走したケース》

☆足利義昭

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD#.E7.B9.94.E7.94.B0.E4.BF.A1.E9.95.B7.E3.81.A8.E3.81.AE.E5.AF.BE.E7.AB.8B

しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。

(略)

信長の専横に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。



☆宣帝 (漢)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)#.E7.94.9F.E6.B6.AF

紀元前74年、昭帝が崩御、昌邑王劉賀が一時即位するが品行不良を理由に廃立されると、儒教の経典、特に詩経・論語・孝経に通じており、「質素倹約に務め、仁愛深い性格だ」という丙吉・霍光らの推薦により上官皇太后の詔を受け、まずは陽武侯に封じられ、間もなく即位した。即位した際に、忌諱が困難であることから即位の際に諱を病已(へいい)から詢(じゅん)と改めている。

昭帝崩御から昌邑王の廃立を経て宣帝の即位に至る一連の動きは、霍光の主導したものであり、政権は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。

紀元前69年、霍光が死去すると、宣帝は肥大しつつあった霍一族の権力、特に軍の指揮権を徐々に剥奪し、外戚の許氏らの子弟に与えた。これに反発した霍光の遺児が反乱を計画すると、それを理由に霍氏一族を処刑している。この他、反乱成功後に帝位を簒奪する予定であった大司馬霍禹は腰斬の刑、皇后の地位にあった霍氏(霍光の娘)も廃位して幽閉し、霍光の死から2年後に親政を開始した。



☆ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC_(%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%9A%87%E5%B8%9D)#.E3.82.B5.E3.82.A4.E3.82.A4.E3.83.89.E5.85.84.E5.BC.9F.E3.81.AE.E8.A8.8E.E4.BC.90

ムハンマド・シャーはサイイド兄弟の信任で皇帝の位を手にしたものの、それは初めは従兄弟ファッルフシヤル以来、皇帝がサイイド兄弟の信任を得て即位しては彼らによって廃位・暗殺されるという状況の末に至ったものであった。そのため、彼が即位した西暦1719年のうちに彼を含め4人の皇帝が次々と交代する、いわゆる古代ローマの軍人皇帝時代の如き混乱状態に帝国は陥っていた。

サイイド家の傀儡であったムハンマド・シャーは自分もファッルフシヤルやラフィー・ウッダラジャート、ラフィー・ウッダウラのように、サイイド兄弟に殺されるのではないかと恐れるようになった。

彼はサイイド兄弟に不満や恐れを持っていたトルコ系やイラン系の貴族たちと組み、彼ら二人を抹殺することに決めた。

トルコ系やイラン系の貴族たちは、軍務大臣フサイン・アリー・ハーンがいるファテープル・シークリーに刺客を送り、1720年10月9日にその暗殺に成功した。これが彼の治世における最初の出来事であった。フサイン・アリー・ハーンの軍は主人が暗殺されたことにより、ムハンマド・シャーに帰属した。

アブドゥッラー・ハーンは弟の死を知り、ムハンマド・シャーに対抗するため、同月17日に傀儡皇帝としてイブラーヒームを擁立し、軍を集めた。その後、ムハンマド・シャーも軍を率いて、宰相であり財務大臣アブドゥッラー・ハーンの討伐のため進軍し、 11月15日にアーグラ付近ハサンプルで交戦した(ハサンプルの戦い)。

だが、アブドゥッラー・ハーンも負ければ殺されるとわかっており必死であった。戦いは昼に始まり夕方になっても決着がつかずに夜通し続けられ、翌16日の昼に決着が着いた。

ムハンマド・シャーの軍は激戦の末に勝ち、アブドゥッラー・ハーンを捕え、サイイド兄弟の横暴はここに終わりを告げた。その後、ムハンマド・シャーの命により、1722年10月12日にサイイド・アブドゥッラー・ハーンは毒殺された。

やきとりのいない八月

飛び地A

ブログ アーカイブ

The Daily Star(レバノン)

Rudaw(イラク)