このブログを検索

2012年2月20日月曜日

〔日本〕2011年の対放射能開戦と1941年の対米開戦の共通項


漫画家 しばざきとしえ
https://twitter.com/#!/toshie_s/status/147222065659920384
チェルノブイリでは3年間「なんだ放射能ってたいしたことないんだね」と皆がいつも通り生活を続けました。3年後、大騒ぎになりました。私たちが過去起きたことに学ばないのは、彼らの苦悩や痛恨を無駄にするのと同じ。



☆清沢洌『暗黒日記』~特攻作戦を経験した2人と読む 
(2005年4月11日の東京新聞・特報)

http://www.asyura2.com/0502/war69/msg/264.html

 「物を知らぬものが、物を知っている者を嘲笑(ちょうしょう)、軽視するところに必ず誤算が起こる。大東亜戦争前にその辺の専門家は相談されなかったのみではなく、いっさい口を閉じしめられた」(四三年七月十四日)

 斉藤氏は「日米開戦の年に戦艦長門に配属になった私たち少尉候補生を指導した海軍少佐は、日本は米国に勝つ見込みはなく、日米開戦はあり得ないと断言していた。だから、年の暮れに開戦と聞いて半信半疑だった。後はしょうがないの論理だ」と回想する。

 「不思議なのは『空気』であり、『勢い』である。(米国にもそれはあるが)日本のものは特に統一的である。その勢いが危険である」(同六月二十七日)

 「空気は怖い。客観性を覆い隠してしまう」と信太氏は話す。「特攻隊の自分でも最後は助かる、これは悪夢に違いないと思っていた。この楽天性は日本人の遺伝子なのかとも思う。裏を返せば、見ざる、聞かざる、言わざる、の“三猿主義”の結果なのだが」

 斉藤氏は「国家によるマインドコントロール」と空気の正体を看破する。

(略)

 清沢はさらに統一的な空気が「あれはアカ(社会主義者)だ」「米英的思想だ」といったレッテル張りの排撃で成り立ち、知識層を委縮させた点に注目する。

 この点を信太氏は「日本人は決めつけが大好き。相手から学ばず、でかい声を出した方が勝ちになる。この点は右翼でも左翼でも変わらない」と冷静にみる。

(略)

 「日本人の美徳はあきらめにあり。しかし、積極的建設は到底不可能である。(略)日本人も必ず今後同じことを繰り返さん」(四三年七月二十五日)



http://www.asyura2.com/0403/war55/msg/287.html

戦前戦中のリベラルなジャーナリスト清沢洌(きよし)が「暗黒日記(1942-1945)」(岩波文庫)で述べている。

 「1945年元日。昨夜から今暁にかけ3回空襲(東京)、焼夷弾が投下された。配給の餅を食べれば新年らしい気分になる。…日本国民は今、初めて戦争を経験している。戦争は文化の母だとか100年戦争だとか言って戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは反戦主義だからということだった。戦争は遊山に行くようなものなのか。戦争を彼らは今味わっている…」

 つまり頭の上から爆弾が降ってきて初めて戦争を実感したといい




☆昭和天皇の戦時の肉声、元侍従の日記見つかる
(2007年3月9日の朝日新聞)
http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/881.html

日中戦争についての天皇の思いも吐露されている。「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」(40年10月12日)、「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが尤(もっと)も賢明なるべき」(41年1月9日)。

(略)

「(戦争は)一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満洲事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。(略)戦争はどこで止めるかが大事なことだ」




《おまけ》

武田邦彦教授のブログより

http://takedanet.com/2012/02/post_c6aa.html

福島原発事故で私がもっとも野蛮だと思ったのは、「被曝に負けない子供」という言葉です。県民税、市民税が減ると生活に影響があると心配しているとしか思えない人たちは地域から人が逃げていくのをいやがり、「被曝に負けない子供」という奇妙な発想をしたのでしょう。

水俣で水銀中毒事件が起きたときでも、「水銀に負けない子供」という標語を作り、水銀で汚染されたサカナを食べさせるようなことはしませんでした。新型インフルエンザが流行した時も、「新型インフルエンザに負けない子供」ということで学級閉鎖をしない、隔離しないということもありませんでした。

科学が進み、魔女がいなくなった今の日本で、まさか「被曝に負けない子供」という言葉を作って、子供たちの被曝をそのまま放置する方法の一つとして活用したのは野蛮な行為であり、私は気分が悪くなります。

これに似たのが「農家の人を助けよう」という言葉で汚染された野菜、牛肉を売ったことです。確かに汚染された農作物を食べたいという人はいませんが、「農家の人を助ける」と聞くと「私の食べないといけないかしら」と思うのは、「こころ優しい日本人」のような気がしますが、決してそうではないと私は思います。

被曝した農作物を出荷するという行為は農家の信用を落としますから「農家の人を助ける」ことにもなりませんし、それを食べる人の「健康を損ねる」ことにもなります。もともと「人が食べるのにはふさわしくない」というものを出荷する人は「農家」ではないでしょう。

「農家」という名称は「そこから出荷される農作物を食べて命をつなぐ」というのではないでしょうか。あまりにも当然ですが・・・・・・

これと似た野蛮な言動が「風評被害」という言葉でした。風評被害というのは実質的に被害がないのに、噂を立てて被害を生じさせることを言いますが、1年1ミリ以上の被曝が法律上許されないのに、セシウムだけで1年5ミリシーベルトの被曝を認めた暫定基準を決め、おまけにセシウム量も測らずに出荷する農作物を買わない人に対して、政府が「風評被害だ」といったのには、これも気分がわるくなりました。

ある東北の知事さんが「県民はベクレルなどと言っても判らないから、安全か危険かだけ言うのが良い」と発言したのはびっくりしました。民主主義ですから、知事は「公僕」ですから、県民の召使いです。それが「主人はバカだから数字はわからない」と公言するのですから、なぜ知事になりたいのかも理解できません。

原発事故の直後、「直ちに健康に影響は無い」と政府は繰り返し、1年経ったら、「被曝の影響がすぐ現れることはないのは常識だ」と原子力安全委員長が会見で発言するのですから、これも驚くべきことです。

このようなことはここ1年で数限りないほどあり、それは多くの人の心をかなり痛めたような気がします。「自分の住んでいる日本、こんなに誠実で学問を尊重してきた日本、子供を大切にしてきた日本。それが本当の姿はこんな社会だったのか!」と残念に思います。

             ↑

戦争責任者の問題   伊丹万作
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

(前略)

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。

 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。

 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(せいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。

 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。

 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。


【送料無料】清沢洌増補版
【送料無料】清沢洌増補版
価格:882円(税込、送料別)


やきとりのいない八月

飛び地A

ブログ アーカイブ

The Daily Star(レバノン)

Rudaw(イラク)