新装「報道ステーション」初日をみる。驚いたのは、コメンテーターを月曜〜木曜の4日間、後藤謙次氏が務めること。首相のメディア幹部との飲食会の常連メンバー。これまでの中島、立野、木村氏らのように安倍批判はでない。TVもここまできた! pic.twitter.com/YAXlxXaCdU— knamekata (@knamekata) 2016年4月11日
https://twitter.com/wildbones88/status/719639213629571072
「安倍さんは~」「安倍さんは~」と嬉しそうに語る後藤謙次、「この間、自民党の○○さんに聞いたらですね~」と関係の近さをアピールする、単なる自民党の広報活動員。おまけに、自民党の失言には「野党がだらしない」と言いだすクズ野郎だ。 pic.twitter.com/RW5xVaETOw— ボーンズ88 (@wildbones88) 2016年4月11日
https://twitter.com/wildbones88/status/719525626550439936
【報道崩壊】1月21日、安倍晋三や渡辺恒雄らと会食していた後藤謙次、報道ステーションの月-木コメンテイター決定発表は、その数日後だった。これは安倍工作員による報道番組の乗っ取り、まさに報道崩壊だ。 @hst_tvasahi pic.twitter.com/E2SF1ZgKZD— ボーンズ88 (@wildbones88) 2016年4月11日
《加賀の前田家は、徳川家に「顔がきく」人物を家老として雇うことにより生き残ることができた》
☆本多政重
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%94%BF%E9%87%8D#.E7.94.9F.E6.B6.AF
天正8年(1580年)、徳川氏の家臣・本多正信の次男として生まれる。
(略)
慶長17年(1612年)に藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参して3万石を拝領し、家老としてまだ年若い前田利常(利長の弟)の補佐にあたった。
(略)
その後は加賀藩によく仕え、慶長18年(1613年)、前田氏が江戸幕府から越中国の返上を迫られると、これを撤回させた功により、2万石を加増され5万石となった。加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられた際には江戸に赴いて懸命に釈明することで懲罰を回避し、この功績を賞されてさらに2万石を加増された。
《石川県は、薩長政権から敵対されないように、島津家に「顔がきく」人物を県令(県知事)として迎え入れた》
☆内田政風
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%94%BF%E9%A2%A8
内田 政風(うちだ まさかぜ、1815年12月31日(文化12年12月2日) - 1893年(明治26年)10月18日)は、日本の武士(薩摩藩)、官僚。通称は仲之助。
石川県令(初代)を務めた。
幕末は島津久光の側近として、倒幕活動に参加。明治時代は官権として県令を務めていた。後に官僚を辞職し、島津家に再び仕えた。