(共同通信)
http://www.47news.jp/CN/201411/CN2014111401002151.html
両党は水面下で維新の党側にも参加を打診している。
《歴史メモ「第三極を創ろうとする試み」》
☆黒田孝高
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98#.E4.BA.BA.E7.89.A9
歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多い。
徳川家康と石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとした。
しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在する。
☆隆中策
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E4%B8%AD%E7%AD%96
隆中策(りゅうちゅうさく)とは、後漢末期に諸葛亮が劉備に説いた戦略。日本では天下三分の計(てんかさんぶんのけい)として知られる。
当時、曹操は汝南袁氏を倒して中原地方をその支配下に治めており、中国全土の統一までは揚州の孫権、荊州の劉表、益州の劉璋、漢中の張魯、涼州の馬超・韓遂などを残すのみとなっていた。
その頃、流浪の身であった劉備は劉表のもとに身を寄せていた。劉表が支配する荊州は、揚州と益州の中間に位置しており、軍事的に極めて重要な地域となっていた。
このような情勢を踏まえ、諸葛亮は劉備に対し、曹操への対抗策として天下三分の計を説いた。その内容は、劉備が荊州と益州を領有し、劉備、曹操、孫権とで中国を大きく三分割する。そして孫権と結んで曹操に対抗し、天下に変事があった際、部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒し漢王朝を再興できる、というものである。
赤壁の戦いの後に劉備は荊州の領有に成功し、更に214年に劉璋を降して益州の領有にも成功する。ここに至り隆中策は実現するかに思われたが、219年に関羽が呂蒙に敗れて荊州を失陥、荊州奪還のために侵攻した劉備も陸遜に大敗したため、計画は頓挫した。
「三勢力が鼎立し均衡を保つ」という戦略は後漢末期より昔に登場している。楚漢戦争の時代には、カイ通が韓信に楚、漢、斉による天下三分の計を提案しているが、最終的に採用はされなかった。現代でも、国家や企業レベルにおいて三勢力が拮抗し均衡を保つ手法を、隆中策の故事に倣い「天下三分の計」と表現することがある
(例:第一次世界大戦期の鈴木商店とその番頭金子直吉)。
ただし諸葛亮の策は「均衡を保つ」ことが目的ではなく、あくまでも最終目的は「中国全土の統一」であり、天下を三分することは統一の為の手段にすぎないことに注意が必要である。またこれと類似の策として、呉でも周瑜や甘寧が「天下二分の計」を説いており、魯粛もこれと似た案(天下を三分してそのひとつを治めるという案)を立案している。
☆金子直吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E7%9B%B4%E5%90%89#.E4.B8.96.E7.95.8C.E7.9A.84.E4.BC.81.E6.A5.AD.E3.81.B8.E3.81.AE.E8.88.B5.E5.8F.96.E3.82.8A
貿易を日本人の手にという情熱が初期の直吉の原動力となっていたが、後にその情熱は日本国内の三井、三菱という既成財閥に向かう。
大正6年(1917年)11月に高畑に宛て書いた手紙では「戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也、小生、是が為生命を五年や十年縮小するもさらに厭うところに非ず」と記している。
☆韓信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1#.E8.BA.8D.E9.80.B2
その後、カイ通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてくる」と進言された。
韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。
絶望したカイ通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1#.E6.9C.80.E6.9C.9F
韓信は死ぬ間際に「カイ通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。