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2014年11月12日水曜日

【東海アマ氏による写真レポート】黒木睦子さん宅の近隣の産業廃棄物の投棄状況

「この地点から沢に白濁した汚水が流れ込み異様な白い泡ができている」
「何度確認しても魚影は皆無だったので」

https://archive.today/YzdoG

http://tokaiama.minim.ne.jp/date1/kuroki1.html



《中国では一人の高齢女性が王朝を倒した事例がある》

☆新末後漢初

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9C%AB%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E5%88%9D#.E8.B5.A4.E7.9C.89.E3.81.AE.E4.B9.B1

ここに至って、各地に農民反乱が続出する。その嚆矢となったのが瑯邪郡海曲県(現在の山東省青島の近く)の呂母と呼ばれる老婆である。彼女の息子は県庁に勤めていたが、些細なことで県宰(県長官)により捕らえられて死刑に処された。17年、これを恨んだ呂母は金を使って人を集めて、海上にて集結し県宰を襲って殺した。

本懐を遂げた呂母は没するが、一度集められた雑軍たちは解散するわけにはいかず、樊崇と言った者たちを首領として山東各地の流民たちを吸収して赤眉軍となる。この集団は敵と味方の区別のために眉毛に赤い染料を塗ったことからこの名前がある。



☆赤眉軍

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%9C%89%E8%BB%8D

天鳳元年(14年)、山東の琅邪郡で呂母なる老女の息子が小罪を問われて県令に殺害された。呂母はこの県令を怨み、息子の仇を討つことを謀る。もとよりあった資産を用い、若年者らに酒をツケで与え、衣服を貸し与えた。数年してその資産が尽きた時、若年者らはツケを払おうとし、呂母は県令への復讐を告げる。若年者らは仇討ちに加担し、ついには数千もの人員を集め県令に対して反乱を起こす。

呂母は県令を殺害した後に死去するが、一旦集まった者達は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、天鳳5年(18年)にキョ(現在の山東省キョ県)で蜂起した、ロウヤ出身の樊崇を指導者とする反乱軍に合流した。

泰山の山岳部を拠点に政府軍に対抗し、数年後には数万人の軍勢を擁するに至る。

やきとりのいない八月

飛び地A

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