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2014年11月18日火曜日

【衆院選】田母神俊雄候補が消費税再増税に反対するとして「仁徳天皇の事例」をあげたが

☆田母神氏激白「取り戻すべきは敗戦で壊された日本社会の構造」 太陽の党代表幹事 (夕刊フジ)

http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20141118/plt1411181521008-n1.htm

https://web.archive.org/web/20141118082004/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20141118/plt1411181521008-n1.htm


田母神氏も「私も消費税再増税には反対だ。デフレから完全に抜け出せていない現状で、再増税に踏み切れば景気は悪化する。仁徳天皇は人家のかまどから炊煙が立ち上っていないことに気づき、租税を3年間やめた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E6.A6.82.E8.AA.AC
貧困にあえぐ人たちから、これ以上搾り取ってはダメ。日本古来の精神に反する」と語った。



《しかしながら、仁徳天皇の統治期に日本経済が激しく疲弊していた原因は、その直前期に繰り返し行われた朝鮮半島への派兵による出費激増によるものではないかとも思われる》

☆三韓征伐

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90#.E3.80.8C.E4.B8.89.E9.9F.93.E3.80.8D.E3.81.8A.E3.82.88.E3.81.B3.E6.96.B0.E7.BE.85.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする。この時の倭群をイツツヒコ王国として、この遠征失敗により弱体化した同王国を打倒したことが「三韓征伐」とする主張もあるが、上記のように、新羅側の記録に倭軍侵攻の記録が残っている。

(略)

362年(または364年)、神功皇后元年、対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王は抵抗することなく降伏し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した。

364年4月、倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする。

365年5月、新羅が朝貢を怠ったため征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四方の村民を捕虜として連れ帰る。

391年倭が海を渡って百済(百残)・加羅・新羅を破り、倭国の臣民となした。秋7月、高句麗王好太王が4万兵で百済北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗、百済の關彌城を落とす。百済王が11月、狗原の行宮にて死去した。

(略)

393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。



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