☆三木武夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB#.E7.BF.BC.E8.B3.9B.E9.81.B8.E6.8C.99.E9.9D.9E.E6.8E.A8.E8.96.A6.E3.81.A7.E3.81.AE.E5.BD.93.E9.81.B8
選挙戦に突入すると、非推薦候補である三木に対して選挙事務所に警官の出入りや特高の監視が行われ、運動員には尾行がつき、三木の演説会に参加した有権者は警察から出頭を命じられ、東京から三木の応援に駆けつけた石田博英に対しては道中私服の警官に付き纏われるなどの選挙干渉に見舞われた。
また三木の選挙戦について地元紙の徳島毎日新聞はほとんど報じることがなかった。
そして対立候補からは三木はアメリカで勉強してきた国賊であると指摘されもした。
このような厳しい情勢下、三木は徳島二区の全域で議会報告演説会を開いて有権者と膝づめの対話を繰り返し、山間部では支援者の家に泊り、戦死者家族の弔問を行うなど、約一ヶ月間の選挙戦の間、民衆の心を直に感じ取っていくような地域に密着した選挙戦を徹底的に行った。
また前回と同じく吉村正、石田博英、玉川学園創始者の小原国芳らを東京から応援弁士として招き、妻睦子の実家である森家と繋がりがある海軍少将、陸軍大佐なども三木の応援に駆けつけた。
1942年(昭和17年)4月30日の第21回衆議院議員総選挙で、三木は秋田清、三木与吉郎に次いで三位に滑り込み、当選を果たした。一方翼協推薦の三木熊二、現職で非推薦の真鍋勝は落選した。
翼賛選挙において翼協非推薦候補の当選率はわずか13.8パーセントに過ぎず、三木は翼協非推薦の苦しい選挙戦を、地域に密着した選挙活動を中心とすることによって勝ち抜き、政治生命の危機を乗り越えた。
そして戦後、翼賛選挙非推薦での当選は三木の勲章となっていく。