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2014年11月18日火曜日

【衆院選/天下三分の計】社民共産を除く全野党による「大合流新党」を目指す動きが本格化

☆野党5党の若手議員 新党目指し署名活動へ
(NHK)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141118/k10013300081000.html

https://web.archive.org/web/20141118114128/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141118/k10013300081000.html

会合には、民主党、維新の党、次世代の党、みんなの党、生活の党の野党5党から、およそ30人の若手の国会議員が出席しました。

この中で会合を呼びかけた民主党の玉木雄一郎衆議院議員は「あすにも衆議院が解散されるという観測があるが、残された時間の中で野党の大同団結に向けた可能性を追求していきたい」と述べました。




《歴史メモ「第三極を創ろうとする試み」》

☆黒田孝高

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98#.E4.BA.BA.E7.89.A9

歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多い。

徳川家康と石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとした。

しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在する。



☆隆中策

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E4%B8%AD%E7%AD%96

隆中策(りゅうちゅうさく)とは、後漢末期に諸葛亮が劉備に説いた戦略。日本では天下三分の計(てんかさんぶんのけい)として知られる。

当時、曹操は汝南袁氏を倒して中原地方をその支配下に治めており、中国全土の統一までは揚州の孫権、荊州の劉表、益州の劉璋、漢中の張魯、涼州の馬超・韓遂などを残すのみとなっていた。

その頃、流浪の身であった劉備は劉表のもとに身を寄せていた。劉表が支配する荊州は、揚州と益州の中間に位置しており、軍事的に極めて重要な地域となっていた。

このような情勢を踏まえ、諸葛亮は劉備に対し、曹操への対抗策として天下三分の計を説いた。その内容は、劉備が荊州と益州を領有し、劉備、曹操、孫権とで中国を大きく三分割する。そして孫権と結んで曹操に対抗し、天下に変事があった際、部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒し漢王朝を再興できる、というものである。

赤壁の戦いの後に劉備は荊州の領有に成功し、更に214年に劉璋を降して益州の領有にも成功する。ここに至り隆中策は実現するかに思われたが、219年に関羽が呂蒙に敗れて荊州を失陥、荊州奪還のために侵攻した劉備も陸遜に大敗したため、計画は頓挫した。

「三勢力が鼎立し均衡を保つ」という戦略は後漢末期より昔に登場している。楚漢戦争の時代には、カイ通が韓信に楚、漢、斉による天下三分の計を提案しているが、最終的に採用はされなかった。現代でも、国家や企業レベルにおいて三勢力が拮抗し均衡を保つ手法を、隆中策の故事に倣い「天下三分の計」と表現することがある
(例:第一次世界大戦期の鈴木商店とその番頭金子直吉)。

ただし諸葛亮の策は「均衡を保つ」ことが目的ではなく、あくまでも最終目的は「中国全土の統一」であり、天下を三分することは統一の為の手段にすぎないことに注意が必要である。またこれと類似の策として、呉でも周瑜や甘寧が「天下二分の計」を説いており、魯粛もこれと似た案(天下を三分してそのひとつを治めるという案)を立案している。



☆金子直吉

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E7%9B%B4%E5%90%89#.E4.B8.96.E7.95.8C.E7.9A.84.E4.BC.81.E6.A5.AD.E3.81.B8.E3.81.AE.E8.88.B5.E5.8F.96.E3.82.8A

貿易を日本人の手にという情熱が初期の直吉の原動力となっていたが、後にその情熱は日本国内の三井、三菱という既成財閥に向かう。

大正6年(1917年)11月に高畑に宛て書いた手紙では「戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也、小生、是が為生命を五年や十年縮小するもさらに厭うところに非ず」と記している。



☆韓信

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1#.E8.BA.8D.E9.80.B2

その後、カイ通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてくる」と進言された。

韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。

絶望したカイ通は後難を恐れ、狂人の振りをして出奔した。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1#.E6.9C.80.E6.9C.9F
韓信は死ぬ間際に「カイ通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。



【商品券解散】安倍首相「連立与党で過半数を維持できなければ退陣する」

安倍首相は「連立与党で過半数を維持できなければアベノミクスは否定されたことになり、退陣する」と述べた。
2014/11/18 19:36  【共同通信】
http://www.47news.jp/FN/201411/FN2014111801001882.html

消費税再増税は「2017年4月」まで延期されることになった 

安倍首相は消費税再増税に関し「来年10月には行わず、18カ月延期すべきだとの結論に至った」と述べた。
2014/11/18 19:25   【共同通信】
http://www.47news.jp/FN/201411/FN2014111801001863.html

【商品券解散】衆議院解散は今月21日(金曜日)

安倍首相は会見で、21日に衆院を解散すると表明した。
2014/11/18 19:26   【共同通信】
http://www.47news.jp/FN/201411/FN2014111801001869.html

【商品券解散】日テレ動画「安倍首相が衆院解散に向け最後の調整をしている」

☆安倍首相 衆院解散に向け最後の調整
(日本テレビ)

http://www.news24.jp/articles/2014/11/18/04263615.html

衆議院総選挙は12月2日公示、14日投開票の日程で行われる。

【商品券解散】安倍首相がこのあと(NHKニュースの枠内の)午後7時10分から記者会見 

首相官邸は、安倍晋三首相が午後7時10分から記者会見すると発表した。
2014/11/18 17:08  【共同通信】

安倍首相が衆院解散表明と与党幹部。
2014/11/18 18:07  【共同通信】

安倍首相が来年10月の消費税再増税延期の意向を表明と与党幹部。
2014/11/18 18:25  【共同通信】

〔衆院選〕東京では「民主党のブランドイメージ」はいまだに回復していない気配

https://twitter.com/akahataseiji/status/534635946722201600



〔衆院選〕沖縄県知事選を終えたばかりの下地幹郎氏が出馬しそうな気配

242 名前:名無しさん
投稿日:2014/11/18(火) 16:28:02.56 ID:xkLsKIrx
今、新都心(注:那覇市の一画)の下地の事務所前を通ったら、駐車場満車だった。
下地の選挙連闘ありそう。面白くなってきました。

伊方原発2号機で微量の放射性物質を含む水が漏れた

愛媛県と四国電力によると、伊方原発2号機で微量の放射性物質を含む水漏れ。外部への漏えいはない。
2014/11/18 16:38  【共同通信】
http://www.47news.jp/FN/201411/FN2014111801001568.html

【衆院選】田母神俊雄候補が消費税再増税に反対するとして「仁徳天皇の事例」をあげたが

☆田母神氏激白「取り戻すべきは敗戦で壊された日本社会の構造」 太陽の党代表幹事 (夕刊フジ)

http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20141118/plt1411181521008-n1.htm

https://web.archive.org/web/20141118082004/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20141118/plt1411181521008-n1.htm


田母神氏も「私も消費税再増税には反対だ。デフレから完全に抜け出せていない現状で、再増税に踏み切れば景気は悪化する。仁徳天皇は人家のかまどから炊煙が立ち上っていないことに気づき、租税を3年間やめた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E6.A6.82.E8.AA.AC
貧困にあえぐ人たちから、これ以上搾り取ってはダメ。日本古来の精神に反する」と語った。



《しかしながら、仁徳天皇の統治期に日本経済が激しく疲弊していた原因は、その直前期に繰り返し行われた朝鮮半島への派兵による出費激増によるものではないかとも思われる》

☆三韓征伐

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90#.E3.80.8C.E4.B8.89.E9.9F.93.E3.80.8D.E3.81.8A.E3.82.88.E3.81.B3.E6.96.B0.E7.BE.85.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする。この時の倭群をイツツヒコ王国として、この遠征失敗により弱体化した同王国を打倒したことが「三韓征伐」とする主張もあるが、上記のように、新羅側の記録に倭軍侵攻の記録が残っている。

(略)

362年(または364年)、神功皇后元年、対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王は抵抗することなく降伏し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した。

364年4月、倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする。

365年5月、新羅が朝貢を怠ったため征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四方の村民を捕虜として連れ帰る。

391年倭が海を渡って百済(百残)・加羅・新羅を破り、倭国の臣民となした。秋7月、高句麗王好太王が4万兵で百済北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗、百済の關彌城を落とす。百済王が11月、狗原の行宮にて死去した。

(略)

393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。



やきとりのいない八月

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