(上杉隆氏)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131209-00010000-noborder-pol
https://web.archive.org/web/20131209202207/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131209-00010000-noborder-pol
事務担当によれば、あすの超党派勉強会には、すでに100人以上の議員から出席の回答が寄せられているという。
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84 名前:無党派さん
投稿日:2013/12/10(火) 02:09:13.24 ID:tYtutMYl
新保守・新自由主義系新党「維新橋下系+民主保守系・非労組系+みんな江田系」は100人超の巨大政党か
《おまけ「武田崩れ」》
☆甲州征伐
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90#.E6.AD.A6.E7.94.B0.E8.BB.8D.E5.9B.A3.E3.81.AE.E5.B4.A9.E5.A3.8A
2月3日、まず森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は森、団の両名は木曽口から、河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。
伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条九兵衛が信氏を追放して織田軍に寝返り河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、2月14日には松尾城(飯田市)主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。
2月12日、本隊の織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出陣し、翌々日の2月14日には岩村城に兵を進めた。翌日には織田信長から一益に「若い信忠をよく補佐せよ」との書状も届いた。
2月16日、武田勢は鳥居峠で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた木曾義昌勢に敗北を喫した。
翌17日に信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻。同日、飯田城主保科正直は城を捨てて高遠城へと逃亡(後に投降して戦後に高遠城主となった)、飯田城放棄を聞いた武田信廉(勝頼の叔父)らは戦意喪失。大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。
同じ2月18日、徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入り、2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲。2月21日には駿府城に進出した。
侵攻初期にあたって投降が相次いだ結果、武田軍はほとんど戦わずして南信濃を失うことになった。