https://youtu.be/gro20Xt2j-s
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2016年4月25日月曜日
ブラジルの左派大統領が失脚しそうになっているがその背後にやはり米国の影が
☆アメリカの共謀? ブラジル大統領排除投票後、主要野党議員がワシントンで会談 (マスコミに載らない海外記事)
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-0e1a.html
http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/480.html
弾劾投票の翌日 ~ PSDBのアロイシオ・ヌネス議員が、ワシントン入りし、三日後、様々なアメリカ高官や、ロビイストや、クリントンや他の大物政治家に近い様々な口きき屋と会談を行う。
《おまけ》
☆ブラジル大統領の弾劾は不正疑惑の議員を使い、米国政府が指揮して行われている可能性が大きい(櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/461.html
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201604210000/
こうした心理戦ではメディアや広告会社が重要な役割を果たすことになる。1980年代にアメリカではメディアの成果でも規制緩和が進められ、巨大資本に支配されるようになる。
《ブラジル史》
☆ブラジルの歴史 ~ ポプリズモ時代(1945年~1964年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E3.83.9D.E3.83.97.E3.83.AA.E3.82.BA.E3.83.A2.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.881945.E5.B9.B4-1964.E5.B9.B4.EF.BC.89
クアドロスが辞任したときゴラールは中華人民共和国を訪問していたが、軍部にとっては「ジャンゴ」と呼ばれて民衆から親しまれ、左翼的な傾向を持つゴラールの大統領就任は認められず、陸海空三軍は全力でゴラールの大統領就任を阻止しようとした。しかし、最終的には、ポルト・アレグレでのレオネル・ブリゾーラ州知事の蜂起によって軍部のクーデターは失敗し、大統領の権限を縮小する妥協により、1961年9月7日にゴラールは大統領に就任した。
ゴラールは経済学者のセレソ・フルタードを経済企画相に登用し、フルタードは外資導入による経済成長と農地改革などの社会改革を両立する三カ年計画を立案したが、ゴラールの大統領就任後も前政権以来のインフレはますます進み、さらに国際収支の赤字が増大し、社会は大きく混乱した。保守派はゴラールの退陣を主張し、ゴラールの計画していた農地改革やその他の社会改革は一歩も進まなかった。
ゴラールは国民投票に訴えようとしたが、1964年3月31日に保守派と結んだカステロ・ブランコ将軍は機先を制してクーデターを実施した。アメリカ海軍の空母を含む艦隊がリオデジャネイロ沖で演習を行い、いざとなれば介入する意向を示していた。左翼勢力からの反撃はほとんどなく、4月4日にゴラールはウルグアイに亡命した。
☆ブラジルの歴史 ~ 軍事独裁政権時代(1964年~1985年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E8.BB.8D.E4.BA.8B.E7.8B.AC.E8.A3.81.E6.94.BF.E6.A8.A9.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.881964.E5.B9.B4-1985.E5.B9.B4.EF.BC.89
ブラジル・クーデターによってゴラール政権が崩壊し、4月15日にカステロ・ブランコ将軍が大統領に就任すると、外資導入を進める意図を持って1964年7月に「経済活動三カ年計画」を実施し、インフレ抑制のための緊縮財政や国営企業の民間への払い下げ、公務員の縮小、福祉予算の減少などを行ったが、この結果、国民資本の企業倒産が相次いだこともあり、それまでに比べて国民の窮乏化が進んだ。
当初カステロ・ブランコは左翼を追放して軍部の作成した「国家安全保障ドクトリン」に基づく統治を行う以上の意向を持っていなかったが、相対的に窮乏化した国民の軍政への反対は根強く、1965年10月の地方選挙で反軍政派の社会民主党や労働党が圧勝すると、同月中にカステロ・ブランコは強硬路線に転換して戒厳令を敷き、国会や地方議会の解散や既存政党の解体再編成を行って11月中には国家革新同盟とブラジル民主運動の二党による翼賛体制が樹立された。
また、外交面ではそれまでの第三世界外交が改められ、ブラジルは親西側諸国の一員として、南米における親米反共の砦となった。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-0e1a.html
http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/480.html
弾劾投票の翌日 ~ PSDBのアロイシオ・ヌネス議員が、ワシントン入りし、三日後、様々なアメリカ高官や、ロビイストや、クリントンや他の大物政治家に近い様々な口きき屋と会談を行う。
《おまけ》
☆ブラジル大統領の弾劾は不正疑惑の議員を使い、米国政府が指揮して行われている可能性が大きい(櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/16/kokusai13/msg/461.html
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201604210000/
こうした心理戦ではメディアや広告会社が重要な役割を果たすことになる。1980年代にアメリカではメディアの成果でも規制緩和が進められ、巨大資本に支配されるようになる。
《ブラジル史》
☆ブラジルの歴史 ~ ポプリズモ時代(1945年~1964年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E3.83.9D.E3.83.97.E3.83.AA.E3.82.BA.E3.83.A2.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.881945.E5.B9.B4-1964.E5.B9.B4.EF.BC.89
クアドロスが辞任したときゴラールは中華人民共和国を訪問していたが、軍部にとっては「ジャンゴ」と呼ばれて民衆から親しまれ、左翼的な傾向を持つゴラールの大統領就任は認められず、陸海空三軍は全力でゴラールの大統領就任を阻止しようとした。しかし、最終的には、ポルト・アレグレでのレオネル・ブリゾーラ州知事の蜂起によって軍部のクーデターは失敗し、大統領の権限を縮小する妥協により、1961年9月7日にゴラールは大統領に就任した。
ゴラールは経済学者のセレソ・フルタードを経済企画相に登用し、フルタードは外資導入による経済成長と農地改革などの社会改革を両立する三カ年計画を立案したが、ゴラールの大統領就任後も前政権以来のインフレはますます進み、さらに国際収支の赤字が増大し、社会は大きく混乱した。保守派はゴラールの退陣を主張し、ゴラールの計画していた農地改革やその他の社会改革は一歩も進まなかった。
ゴラールは国民投票に訴えようとしたが、1964年3月31日に保守派と結んだカステロ・ブランコ将軍は機先を制してクーデターを実施した。アメリカ海軍の空母を含む艦隊がリオデジャネイロ沖で演習を行い、いざとなれば介入する意向を示していた。左翼勢力からの反撃はほとんどなく、4月4日にゴラールはウルグアイに亡命した。
☆ブラジルの歴史 ~ 軍事独裁政権時代(1964年~1985年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E8.BB.8D.E4.BA.8B.E7.8B.AC.E8.A3.81.E6.94.BF.E6.A8.A9.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.881964.E5.B9.B4-1985.E5.B9.B4.EF.BC.89
ブラジル・クーデターによってゴラール政権が崩壊し、4月15日にカステロ・ブランコ将軍が大統領に就任すると、外資導入を進める意図を持って1964年7月に「経済活動三カ年計画」を実施し、インフレ抑制のための緊縮財政や国営企業の民間への払い下げ、公務員の縮小、福祉予算の減少などを行ったが、この結果、国民資本の企業倒産が相次いだこともあり、それまでに比べて国民の窮乏化が進んだ。
当初カステロ・ブランコは左翼を追放して軍部の作成した「国家安全保障ドクトリン」に基づく統治を行う以上の意向を持っていなかったが、相対的に窮乏化した国民の軍政への反対は根強く、1965年10月の地方選挙で反軍政派の社会民主党や労働党が圧勝すると、同月中にカステロ・ブランコは強硬路線に転換して戒厳令を敷き、国会や地方議会の解散や既存政党の解体再編成を行って11月中には国家革新同盟とブラジル民主運動の二党による翼賛体制が樹立された。
また、外交面ではそれまでの第三世界外交が改められ、ブラジルは親西側諸国の一員として、南米における親米反共の砦となった。
【政局】どちらかと言えば「衆参ダブル選挙になる」公算が高いと思われる
☆衆参同日選、見送りで調整=首相、熊本地震の対応優先
(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042000712&g=pol
http://www.webcitation.org/6h19D2rNS
安倍晋三首相は20日、熊本県を中心とする大規模地震を受け、夏の参院選に合わせた衆院解散・総選挙を見送る方向で調整に入った。
☆死んだふり解散~概説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%B5%E3%82%8A%E8%A7%A3%E6%95%A3#.E6.A6.82.E8.AA.AC
1986年(昭和61年)当時、中曽根康弘内閣総理大臣は在任4年目に突入していた。中曽根内閣は党内基盤が磐石ではないものの、世論調査では高い内閣支持率を保っており、中曽根は前回総選挙で失った党勢の回復のために衆参同日選挙を目論んでいた。
しかし、前年の1985年(昭和60年)7月17日、最高裁判所が衆議院の議員定数の不均衡(一票の格差)に対して違憲判決を出しており、この問題が解散総選挙の障害となっていた。
そこで政府・与党は議員定数不均衡を是正するために公職選挙法改正案を提出。1986年5月22日に参議院本会議で可決・成立して議員定数不均衡問題は解決した。しかし、同日選に反対する野党との妥協により、改正法には新定数に関する30日の「周知期間」が設けられたことや、後藤田正晴内閣官房長官らが「この法改正で首相の解散権は制限される」旨の発言をおこなったことなどで、中曽根は同日選実施を断念したと思われていた。
ところが、中曽根内閣は第105回臨時国会を6月2日に開会し、冒頭で衆議院解散することを閣議で決定した。本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長が解散詔書を朗読して衆議院解散となった(議長応接室における衆議院解散は、この年を最後に途絶えている)。政府は7月6日に参院選と同時に衆院選を行うことを決定し、史上2度目の衆参同日選挙となった。
この総選挙では、高い内閣支持率や十分な選挙対策などにより、与党自由民主党が圧勝した。自民党は任期満了間近だった党総裁の任期を1年延長する党則の改正をおこない、中曽根の功績に報いた。
後に中曽根が「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした。」と述べ、早期解散はできないと思わせたことを「死んだふり」と表現したことから、「死んだふり解散」という解散名が定着した。
(時事通信)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042000712&g=pol
http://www.webcitation.org/6h19D2rNS
安倍晋三首相は20日、熊本県を中心とする大規模地震を受け、夏の参院選に合わせた衆院解散・総選挙を見送る方向で調整に入った。
☆死んだふり解散~概説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%B5%E3%82%8A%E8%A7%A3%E6%95%A3#.E6.A6.82.E8.AA.AC
1986年(昭和61年)当時、中曽根康弘内閣総理大臣は在任4年目に突入していた。中曽根内閣は党内基盤が磐石ではないものの、世論調査では高い内閣支持率を保っており、中曽根は前回総選挙で失った党勢の回復のために衆参同日選挙を目論んでいた。
しかし、前年の1985年(昭和60年)7月17日、最高裁判所が衆議院の議員定数の不均衡(一票の格差)に対して違憲判決を出しており、この問題が解散総選挙の障害となっていた。
そこで政府・与党は議員定数不均衡を是正するために公職選挙法改正案を提出。1986年5月22日に参議院本会議で可決・成立して議員定数不均衡問題は解決した。しかし、同日選に反対する野党との妥協により、改正法には新定数に関する30日の「周知期間」が設けられたことや、後藤田正晴内閣官房長官らが「この法改正で首相の解散権は制限される」旨の発言をおこなったことなどで、中曽根は同日選実施を断念したと思われていた。
ところが、中曽根内閣は第105回臨時国会を6月2日に開会し、冒頭で衆議院解散することを閣議で決定した。本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長が解散詔書を朗読して衆議院解散となった(議長応接室における衆議院解散は、この年を最後に途絶えている)。政府は7月6日に参院選と同時に衆院選を行うことを決定し、史上2度目の衆参同日選挙となった。
この総選挙では、高い内閣支持率や十分な選挙対策などにより、与党自由民主党が圧勝した。自民党は任期満了間近だった党総裁の任期を1年延長する党則の改正をおこない、中曽根の功績に報いた。
後に中曽根が「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした。」と述べ、早期解散はできないと思わせたことを「死んだふり」と表現したことから、「死んだふり解散」という解散名が定着した。
【補欠選挙が終わった】日テレ動画ニュース「衆参ダブル選挙ありうる」
☆与野党対決で与党勝利 どうなる衆参W選挙
(日本テレビ)
http://www.news24.jp/articles/2016/04/25/04328567.html
しかし、安倍首相は、ダブル選挙の可能性を依然、排除はしていない。
(日本テレビ)
http://www.news24.jp/articles/2016/04/25/04328567.html
しかし、安倍首相は、ダブル選挙の可能性を依然、排除はしていない。
2016年4月24日日曜日
〔北海道5区補選〕仮に池田まき候補が当選しても検察が納得しなかっただろう
https://twitter.com/cochonrouge/status/724223049705246722
☆町村金五~来歴・人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E6%9D%91%E9%87%91%E4%BA%94#.E6.9D.A5.E6.AD.B4.E3.83.BB.E4.BA.BA.E7.89.A9
内務官僚時代は、官選の新潟県・富山県両県の知事を経て、内務省警保局長や警視総監などを歴任したが、戦後に公職追放された。
追放解除後、衆議院議員総選挙に立候補して国会議員となる。その後、北海道知事に当選し3期務める。任期満了後は参議院議員に転じ、自治大臣等も務めた。
総選挙に4回、参院選挙に2回当選した。
池田が勝つと、前の前の時みたいに検察がアップを始めるから、怖いね— 赤い豚 (@cochonrouge) 2016年4月24日
☆町村金五~来歴・人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E6%9D%91%E9%87%91%E4%BA%94#.E6.9D.A5.E6.AD.B4.E3.83.BB.E4.BA.BA.E7.89.A9
内務官僚時代は、官選の新潟県・富山県両県の知事を経て、内務省警保局長や警視総監などを歴任したが、戦後に公職追放された。
追放解除後、衆議院議員総選挙に立候補して国会議員となる。その後、北海道知事に当選し3期務める。任期満了後は参議院議員に転じ、自治大臣等も務めた。
総選挙に4回、参院選挙に2回当選した。
共同通信の速報「北海道5区補選で自民の和田義明氏が当選確実」
https://twitter.com/kyodo_official/status/724226392183824384
【速報】北海道5区補選で自民・和田氏が初当選確実https://t.co/WAD80Gfd6W— 共同通信公式 (@kyodo_official) 2016年4月24日
【写真】NHK「北海道5区補選は和田義明候補(自民)が勝った」
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