無所属 池田 真紀(いけだ まき)氏 (43)
――安全保障関連法の廃止を訴えていますが、北朝鮮などの脅威からどう国を守りますか?
「平和外交です。武力は、破壊にしかつながらない。平和や安心を相手に差し出すことで、友好的な解決が可能だと考えています。」
http://www.asyura2.com/16/senkyo203/msg/738.html
↓
☆ミサイル警戒に万全=菅官房長官
(時事通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160414-00000113-jij-pol
http://www.webcitation.org/6gl9RcKNk
菅義偉官房長官は14日午後の記者会見で、北朝鮮が中距離弾道ミサイル「ムスダン」を配備したとする韓国メディアの報道について、「いかなる事態においても国民の生命、財産を守るべく、自衛隊にも必要な態勢を取らせている」と述べた。
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2016年4月14日木曜日
アフガニスタンでは政府軍と反政府武装勢力の死闘が続いている模様
https://twitter.com/BREAKING_PTV/status/720507011612483586
Afghanistan says kills over 20 terrorists in east, south operations in past 24 hours pic.twitter.com/F42L1BWOwR— Press TV Breaking (@BREAKING_PTV) 2016年4月14日
【放射能】東京新聞「東京湾のセシウム汚染~印旛沼から拡散~河口水門で高止まり」
☆東京湾のセシウム汚染 印旛沼から拡散 河口水門で高止まり
(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016041490070730.html
http://www.webcitation.org/6gkuYRjFI
印旛沼(千葉県)から花見川河口(同)へとたどったところ、沼から川、東京湾へと汚染が拡散している状況が分かった。
(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016041490070730.html
http://www.webcitation.org/6gkuYRjFI
印旛沼(千葉県)から花見川河口(同)へとたどったところ、沼から川、東京湾へと汚染が拡散している状況が分かった。
本日の読売新聞・茨城版の「訃報欄」に48歳女性と37歳男性の名が
111 名前:地震雷火事名無し(茨城県)
投稿日:2016/04/14(木) 08:53:52.04 ID:khdwQ26T
今日の訃報(48件)
水戸市 女性 48歳 喪主 父
牛久市 男性 37歳 喪主 父
投稿日:2016/04/14(木) 08:53:52.04 ID:khdwQ26T
今日の訃報(48件)
水戸市 女性 48歳 喪主 父
牛久市 男性 37歳 喪主 父
【原爆投下】先日の「広島宣言」だが日本国民を騙すために意図的に“誤訳”した疑惑が
☆大新聞は選挙PR屋か “サミット礼賛”チョーチン報道
(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/16/senkyo204/msg/434.html
日本語にしてしまえば、「非人道的」と「非人間的」は似て見える。だから、核保有国の立場に譲歩し、広島や被爆者の世論に配慮した結果、「非人間的な苦難」と無理やり意訳して、何らかの成果を勝ち取ったかのように見せた。
《おまけ》
☆ポツダム宣言~発表後の反応
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80#.E7.99.BA.E8.A1.A8.E5.BE.8C.E3.81.AE.E5.8F.8D.E5.BF.9C
ポツダム宣言の発表をうけた日本政府ではこの宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に当たったのは条約局第一課長下田武三であった。
外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った。
これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。
しかし陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した。
結局東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された。
7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。
ところが翌28日の新聞報道では、読売新聞で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。
また陸軍からは政府が宣言を無視することを公式に表明するべきであるという強硬な要求が行われ、同日、首相鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代式表記・仮名使いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された(産経新聞は1950年創刊でこの当時は存在しない)。
この「黙殺 (Mokusatsu) 」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore」と翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。
東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議している。
なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。
(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/16/senkyo204/msg/434.html
日本語にしてしまえば、「非人道的」と「非人間的」は似て見える。だから、核保有国の立場に譲歩し、広島や被爆者の世論に配慮した結果、「非人間的な苦難」と無理やり意訳して、何らかの成果を勝ち取ったかのように見せた。
《おまけ》
☆ポツダム宣言~発表後の反応
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80#.E7.99.BA.E8.A1.A8.E5.BE.8C.E3.81.AE.E5.8F.8D.E5.BF.9C
ポツダム宣言の発表をうけた日本政府ではこの宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に当たったのは条約局第一課長下田武三であった。
外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った。
これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。
しかし陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した。
結局東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された。
7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。
ところが翌28日の新聞報道では、読売新聞で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。
また陸軍からは政府が宣言を無視することを公式に表明するべきであるという強硬な要求が行われ、同日、首相鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代式表記・仮名使いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された(産経新聞は1950年創刊でこの当時は存在しない)。
この「黙殺 (Mokusatsu) 」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore」と翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。
東郷は鈴木の発言が閣議決定違反であると抗議している。
なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。
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【ニュース番組の落日】政府や与党が「数字のトリック」を使用してもそれに反論するキャスターがいない
☆ニュース番組の“突っ込み”が足りない? 室井佑月「偏向報道とは?」
(週刊朝日 4月22日号)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160414-00000001-sasahi-pol
http://www.webcitation.org/6gkRoHcz1
一方通行の発言をだだ漏れさせることを、偏向報道というんじゃないの?
《昭和19年》
https://twitter.com/AnkokuNikkiBot/status/718063856791064577
(週刊朝日 4月22日号)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160414-00000001-sasahi-pol
http://www.webcitation.org/6gkRoHcz1
一方通行の発言をだだ漏れさせることを、偏向報道というんじゃないの?
《昭和19年》
https://twitter.com/AnkokuNikkiBot/status/718063856791064577
日本の新聞記者は官庁のメガホンである。 昭和19年4月3日— 暗黒日記bot (@AnkokuNikkiBot) 2016年4月7日
平日の夜のニュース番組は入院患者が食べる「減塩食」みたいな味気ないものばかりになった
https://twitter.com/hirakawamaru/status/720180123153014784
↓
https://twitter.com/aiko33151709/status/720206966111375360
政権に批判的というよりは、問うべきことを問い、言うべきことを言おうという姿勢を示していた三人がいなくなった報道番組の、腑抜けぶりが凄い。見ていて全く面白くない。視聴率も下がるのではないだろうか。俺も、見る気がしないし。— 平川克美 (@hirakawamaru) 2016年4月13日
↓
https://twitter.com/aiko33151709/status/720206966111375360
@hirakawamaru @hdkachihar 報道ステーションの最初の日は見ましたが、予測どうりの物足りなさでした。テレ朝はイケメンの男性アナを使えば、これまでどうり視聴率を稼げると思っているのでしょうか。NEWS23もクロ現+も、みんなそうでした。私ももう見ません。— 澤田愛子 (@aiko33151709) 2016年4月13日
【民進党にお灸】労働者の味方「連合」が民進党から(いったん)距離を置く方針
☆連合、民進とは「連携」に格下げ 従来は「支援」、政策再確認か
(共同通信)
http://this.kiji.is/93028148224361980?c=39546741839462401
連合が民進党との関係について、民主党時代の「連携、支援を強化」から「連携を図る」にいったん格下げする方針であることが分かった。
《参院選。共産党に接近した民進党を見切り、一部の労働組合が自民党候補の支援を開始》
☆地元更北地区での国政報告会
(若林健太オフィシャルサイト)
http://www.wakabayashikenta.com/contents/kentablog/2016/04/002326.php
某会社から、共産党と協定を結んだ事で組合が自主投票となり、会社をあげて応援体制を組むという連絡を頂いた。効果は大きい。こうした動きが広がると有難いが、果たしてどうなるか。
《おまけ》
☆チリ・クーデター ~アジェンデ大統領の任期中
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC#.E3.82.A2.E3.82.B8.E3.82.A7.E3.83.B3.E3.83.87.E5.A4.A7.E7.B5.B1.E9.A0.98.E3.81.AE.E4.BB.BB.E6.9C.9F.E4.B8.AD
政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、 アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる極右組織が次々に誕生し、CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。
また、政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、結果的にインフレと物不足を引き起こした。
さらにアメリカのリチャード・ニクソン政権が経済制裁を行い、その中でも、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことがチリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。
これらの結果、政権末期にはチリ経済は極度の混乱状態に陥った。
しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。
しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。
これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による国家転覆を狙うようになった。
☆エンリコ・ベルリンゲル~歴史的妥協政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB#.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E7.9A.84.E5.A6.A5.E5.8D.94.E6.94.BF.E7.AD.96
書記長就任後間もない1973年10月には、当時のイタリアの与党であり、共産主義がその存在を否定するキリスト教を教条とするキリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、「歴史的妥協政策」による連立政権の樹立を図る事となる。
その後イタリア共産党は得票数を伸ばし、中央政界から地方に至るまで躍進する原動力となったものの、冷戦下のイタリアにおいてカトリック教会から労働組合、さらに、ユーゴスラビアなどの社会主義国と隣接するイタリアにおける「容共政権」の成立を嫌ったアメリカ合衆国の意を受けた右派に至るまで様々な勢力による思惑、利権が入り混じったことから結局成功しなかった。
《ティム・ワイナー著「CIA秘録」を読んだ人の感想》
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20101127/p1
チリのアジェンデ政権は民主的に選ばれた左派政権だが、反共産主義のためだけにアメリカはこの政権をつぶそうとした。実際に1964年の選挙では親米的な大統領候補に300万ドルと政治コンサルタントをつけ、選挙に勝利させアジェンデの政権獲得を阻止することはできた。しかし、1970年の選挙では実際にアジェンデが勝ってしまった。
よって政治的な圧力だけでなく軍事クーデターを画策することになるが、チリの軍部は民主主義的であり軍事クーデターをけしかけるのは難しかった。ニクソンはアジェンデの政権獲得を阻止できなかったことに激怒し、キッシンジャーの発案のもと、1000万ドルが投入され、チリの過激派を支持する政策がとられた。
この資金はチリ国内の政治経済を混乱させるために使われ、結果1973年のクーデターによりピノチェト将軍の軍事独裁政権が発足した。ピノチェトの統治下では3200人以上が殺されることになるが、その殺人と拷問に関わったチリ諜報機関を指揮していたマヌエル・コントレラス大佐はCIAのスパイでもあった。
(略)
また工作員を政界に送り込んだり、資金援助することについては日本の例がある。首相の岸信介はCIAから援助を受けていた。岸は戦後、A級戦犯容疑者として収監されていたが、アメリカの駐日大使ジョセフ・グル―(CIA工作員)とのつながりがあったためか釈放される。後に岸は日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束し、見返りに資金援助を要求する。岸だけでなく自民党の主要議員にも引き続き財政的援助がなされた。
《「週刊文春」2007年10月4日号の記事》
http://blog.trend-review.net/blog/2007/09/000439.html
「秘密裏の政治的支援」とは、ずばりCIAからのカネだと、ウィナー氏は著書で断定している。
「1994年のことです。CIAと米国政府との秘密作戦について取材していた私は、米国国務省が毎年発行している『米国の外交』の発行が遅れていることを知りました。CIAの自民党に対する支援について記述することに、CIAが難色を示したことが原因でした」
岸は首相に就任する以前から、CIAを含む米国人脈を築きあげ、その人脈を通じて米国側に自らの政権構想への理解を求めていた。その構想には、保守派を合同して自由民主党を結成することや、安保改訂の計画までもがすでに含まれていた。
同時に岸は日本政界についてのさまざまな情報をCIAに提供した。その見返りとして岸がCIAに求めたのが、政界工作資金だったのだ。岸はCIAのエージェントであった。そして、岸は首相の座につくや、〈CIAと協力して針安保条約を練り直すことを約束した〉。
交渉相手は、マッカーサー元帥の甥、ダグラス・マッカーサー二世だった。
〈岸は新任の駐日米国大使のマッカーサー二世にこう語った。もし自分の権力基盤を米国が固めることに米国が協力すれば、新安全保障条約は可決されるだろうし、高まる左翼の潮流を食い止めることができる、と。岸がCIAに求めたのは、断続的に支払われる裏金ではなく、永続的な支援財源だった。「日本が共産党の手に落ちれば、どうして他のアジア諸国がそれに追随しないでいられるだろうか」と岸に説得された、とマッカーサー二世は振り返った〉
当時、アメリカの対日政策は転換期にあった。東西冷戦の激化に伴い、日本を共産主義に対する“防波堤”とすべく、再軍備と自立を促す方針に転換したのである。
“逆コース”と呼ばれるこの政策転換は、47年から48年に起きた。この一環で公職追放解除が行なわれ、追放されていた岸も53年に政界復帰した。米国は保守派を結集し、再軍備をも辞さない強力な指導者を求めていたのである。
マッカーサー二世の証言からは、岸がこうした状況に乗じて、米国側から資金を引き出そうとしたことが読み取れる。
そして、58年5月の日本の総選挙前、アイゼンハワー大統領は岸に資金援助することを決定した。
〈(ジョン・)フォスター・ダレス(国務長官)も同じ意見だった。ダレスは、米国は大金を支払ってでも日本に賭けるべきで、米国が賭ける相手としてもっとも有望なのが岸であると主張した。アイゼンハワー大統領自身が安全保障条約のために日本に対する政治支援を決断したが、それはすなわち、岸に対して米国が資金援助することを意味していた。アイゼンハワーは主要な自民党議員にCIAから継続的に献金することを承認した〉
〈そのような資金が、四人の歴代大統領のもとで少なくとも15年のあいだ流れ、冷戦期の日本で一党支配を強化することに貢献した〉
自民党が権力の座を維持するために必要なカネはアメリカから供給されていた。その代償は、安全改定を含む、日本がアメリカにとって都合のいい国になることだった。
アイゼンハワー大統領が主要な保守政治家への資金援助を決定したことは、昨年7月刊行の『米国の外交1964-1968』にやっと記された。ウィナー氏が記事を発表してから12年後の昨年、国務省はようやく問題の記述を一部公開したというわけだ。
こうして得られた資金はどのように使われたのか。米国の外交文書には、57年と58年の二回、岸の弟である佐藤栄作が米国側に資金援助を要請したことが記録されている。二回の資金要請は、ともに58年の総選挙と59年の参院選挙への対策を名目としていることから、CIAからの資金は選挙対策に投じられたと考えられる。
ウィナー氏は、CIAの工作をこう総括した。
「資金提供の見返りにCIAが得たのは、これから誰が指導者の地位を占めるのか、日本が今後どのような方向に進むのか、といった日本政界に関する情報でした。
~中略~
この関係によって米国は対日外交政策の目標を達成し、アジアにおける相当な影響力を持った反共勢力、つまり日本を作り上げたのです」
(共同通信)
http://this.kiji.is/93028148224361980?c=39546741839462401
連合が民進党との関係について、民主党時代の「連携、支援を強化」から「連携を図る」にいったん格下げする方針であることが分かった。
《参院選。共産党に接近した民進党を見切り、一部の労働組合が自民党候補の支援を開始》
☆地元更北地区での国政報告会
(若林健太オフィシャルサイト)
http://www.wakabayashikenta.com/contents/kentablog/2016/04/002326.php
某会社から、共産党と協定を結んだ事で組合が自主投票となり、会社をあげて応援体制を組むという連絡を頂いた。効果は大きい。こうした動きが広がると有難いが、果たしてどうなるか。
《おまけ》
☆チリ・クーデター ~アジェンデ大統領の任期中
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC#.E3.82.A2.E3.82.B8.E3.82.A7.E3.83.B3.E3.83.87.E5.A4.A7.E7.B5.B1.E9.A0.98.E3.81.AE.E4.BB.BB.E6.9C.9F.E4.B8.AD
政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、 アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる極右組織が次々に誕生し、CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。
また、政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、結果的にインフレと物不足を引き起こした。
さらにアメリカのリチャード・ニクソン政権が経済制裁を行い、その中でも、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことがチリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。
これらの結果、政権末期にはチリ経済は極度の混乱状態に陥った。
しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。
しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。
これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による国家転覆を狙うようになった。
☆エンリコ・ベルリンゲル~歴史的妥協政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB#.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E7.9A.84.E5.A6.A5.E5.8D.94.E6.94.BF.E7.AD.96
書記長就任後間もない1973年10月には、当時のイタリアの与党であり、共産主義がその存在を否定するキリスト教を教条とするキリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、「歴史的妥協政策」による連立政権の樹立を図る事となる。
その後イタリア共産党は得票数を伸ばし、中央政界から地方に至るまで躍進する原動力となったものの、冷戦下のイタリアにおいてカトリック教会から労働組合、さらに、ユーゴスラビアなどの社会主義国と隣接するイタリアにおける「容共政権」の成立を嫌ったアメリカ合衆国の意を受けた右派に至るまで様々な勢力による思惑、利権が入り混じったことから結局成功しなかった。
《ティム・ワイナー著「CIA秘録」を読んだ人の感想》
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20101127/p1
チリのアジェンデ政権は民主的に選ばれた左派政権だが、反共産主義のためだけにアメリカはこの政権をつぶそうとした。実際に1964年の選挙では親米的な大統領候補に300万ドルと政治コンサルタントをつけ、選挙に勝利させアジェンデの政権獲得を阻止することはできた。しかし、1970年の選挙では実際にアジェンデが勝ってしまった。
よって政治的な圧力だけでなく軍事クーデターを画策することになるが、チリの軍部は民主主義的であり軍事クーデターをけしかけるのは難しかった。ニクソンはアジェンデの政権獲得を阻止できなかったことに激怒し、キッシンジャーの発案のもと、1000万ドルが投入され、チリの過激派を支持する政策がとられた。
この資金はチリ国内の政治経済を混乱させるために使われ、結果1973年のクーデターによりピノチェト将軍の軍事独裁政権が発足した。ピノチェトの統治下では3200人以上が殺されることになるが、その殺人と拷問に関わったチリ諜報機関を指揮していたマヌエル・コントレラス大佐はCIAのスパイでもあった。
(略)
また工作員を政界に送り込んだり、資金援助することについては日本の例がある。首相の岸信介はCIAから援助を受けていた。岸は戦後、A級戦犯容疑者として収監されていたが、アメリカの駐日大使ジョセフ・グル―(CIA工作員)とのつながりがあったためか釈放される。後に岸は日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束し、見返りに資金援助を要求する。岸だけでなく自民党の主要議員にも引き続き財政的援助がなされた。
《「週刊文春」2007年10月4日号の記事》
http://blog.trend-review.net/blog/2007/09/000439.html
「秘密裏の政治的支援」とは、ずばりCIAからのカネだと、ウィナー氏は著書で断定している。
「1994年のことです。CIAと米国政府との秘密作戦について取材していた私は、米国国務省が毎年発行している『米国の外交』の発行が遅れていることを知りました。CIAの自民党に対する支援について記述することに、CIAが難色を示したことが原因でした」
岸は首相に就任する以前から、CIAを含む米国人脈を築きあげ、その人脈を通じて米国側に自らの政権構想への理解を求めていた。その構想には、保守派を合同して自由民主党を結成することや、安保改訂の計画までもがすでに含まれていた。
同時に岸は日本政界についてのさまざまな情報をCIAに提供した。その見返りとして岸がCIAに求めたのが、政界工作資金だったのだ。岸はCIAのエージェントであった。そして、岸は首相の座につくや、〈CIAと協力して針安保条約を練り直すことを約束した〉。
交渉相手は、マッカーサー元帥の甥、ダグラス・マッカーサー二世だった。
〈岸は新任の駐日米国大使のマッカーサー二世にこう語った。もし自分の権力基盤を米国が固めることに米国が協力すれば、新安全保障条約は可決されるだろうし、高まる左翼の潮流を食い止めることができる、と。岸がCIAに求めたのは、断続的に支払われる裏金ではなく、永続的な支援財源だった。「日本が共産党の手に落ちれば、どうして他のアジア諸国がそれに追随しないでいられるだろうか」と岸に説得された、とマッカーサー二世は振り返った〉
当時、アメリカの対日政策は転換期にあった。東西冷戦の激化に伴い、日本を共産主義に対する“防波堤”とすべく、再軍備と自立を促す方針に転換したのである。
“逆コース”と呼ばれるこの政策転換は、47年から48年に起きた。この一環で公職追放解除が行なわれ、追放されていた岸も53年に政界復帰した。米国は保守派を結集し、再軍備をも辞さない強力な指導者を求めていたのである。
マッカーサー二世の証言からは、岸がこうした状況に乗じて、米国側から資金を引き出そうとしたことが読み取れる。
そして、58年5月の日本の総選挙前、アイゼンハワー大統領は岸に資金援助することを決定した。
〈(ジョン・)フォスター・ダレス(国務長官)も同じ意見だった。ダレスは、米国は大金を支払ってでも日本に賭けるべきで、米国が賭ける相手としてもっとも有望なのが岸であると主張した。アイゼンハワー大統領自身が安全保障条約のために日本に対する政治支援を決断したが、それはすなわち、岸に対して米国が資金援助することを意味していた。アイゼンハワーは主要な自民党議員にCIAから継続的に献金することを承認した〉
〈そのような資金が、四人の歴代大統領のもとで少なくとも15年のあいだ流れ、冷戦期の日本で一党支配を強化することに貢献した〉
自民党が権力の座を維持するために必要なカネはアメリカから供給されていた。その代償は、安全改定を含む、日本がアメリカにとって都合のいい国になることだった。
アイゼンハワー大統領が主要な保守政治家への資金援助を決定したことは、昨年7月刊行の『米国の外交1964-1968』にやっと記された。ウィナー氏が記事を発表してから12年後の昨年、国務省はようやく問題の記述を一部公開したというわけだ。
こうして得られた資金はどのように使われたのか。米国の外交文書には、57年と58年の二回、岸の弟である佐藤栄作が米国側に資金援助を要請したことが記録されている。二回の資金要請は、ともに58年の総選挙と59年の参院選挙への対策を名目としていることから、CIAからの資金は選挙対策に投じられたと考えられる。
ウィナー氏は、CIAの工作をこう総括した。
「資金提供の見返りにCIAが得たのは、これから誰が指導者の地位を占めるのか、日本が今後どのような方向に進むのか、といった日本政界に関する情報でした。
~中略~
この関係によって米国は対日外交政策の目標を達成し、アジアにおける相当な影響力を持った反共勢力、つまり日本を作り上げたのです」
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